テレビドラマは「楽園のカナリア」たれ

 「炭鉱のカナリア」とは危機の到来を知らせる前兆を指す比喩だが、優れたテレビドラマとは「楽園のカナリア」なのではないか。昨年の話で恐縮だが、10月期のテレビ朝日系「おっさんずラブ in the sky」を見て、いや見た後、そんな直観を得た。

 同作は、2018年に男性同士の恋愛をコミカルなタッチで表現して話題をさらった連続ドラマ「おっさんずラブ」の続編。舞台を不動産会社から航空会社「天空ピーチエアライン」に移し、35歳のさえない「非モテ男子」春田創一(田中圭さん)と同僚の男性たちとの恋模様を描いた。

 前作を「アマゾンプライム」で二度見して同じ場面で涙した筆者にとって、今作は正直、物足りなかった。なぜだろう。総じて「引っかかり」がないのだ。男性を好きになること、好きになられることに、「男性同士だから」という意味においてためらいも戸惑いもほとんど映し出されない。周囲の女性たちもそんな男たちの恋愛に好奇のまなざしを向けることもないし、当然、嫌悪感を示すこともない。つまり、異性愛(ヘテロセクシャル)と同性愛(ホモセクシャル)が全くの「等価」な文脈で語られている。ふーん、こんなもんか。

 全話見終えてからしばらくして、ふっと思考が立ち止まった。あー、自分は前作、ゲイの恋愛を単なる「ハードル」として消費していたに過ぎなかったのだ、と。ヘテロの男として、この社会の多数派(マジョリティー)の立場から。

 確かに前作は、「ロリ巨乳女子」好きを自認する主人公が、年上の上司と年下の後輩から愛の告白をされて驚愕し、さらに自分が男性を好きになっていくことに煩悶し、次第にそれを受け入れていった。その描写が斬新だったし、筆者も心を躍らせた。だがある意味、それは徹底してヘテロの目線だったのだ。

 今作はある意味、現代社会との並行世界(パラレルワールド)が描かれている。近年、性的少数者の権利が次第に認められるようになったとはいえ、社会の差別意識は根強いように思う。実際、性的少数者を「子どもを作らない、つまり『生産性』がない」と切って捨てた国会議員もいた。現実の日本はまだ、そんな社会だ。

 と、そんなことを考えながら、昨年末に一挙再放送されたTBS系「逃げるは恥だが役に立つ」を見た。16年の放送時は、主演の新垣結衣さんのあまりのかわいさと流行した「恋ダンス」に目を奪われて関心を振り向けていなかったが、実はこの作品にもサブキャラクターの男性同士の淡い恋心が盛り込まれている。詳細は割愛するが、「おっさんずラブ」を先取りする視点があると感じる。

 最後にもう1点、別の観点も差し込んでおきたい。初の小説「デッドライン」が芥川賞候補となって注目を浴びた哲学者千葉雅也さんはある論考で、「多様性ある社会」を強調して性的少数者への支援を訴えるリベラルな立場に警戒感をあらわにした。子どもという存在無くしては維持できない「国家」と性的少数者は、原理的に「敵対関係」にあり、性的少数者の「逸脱性」は消し得ないと。そして自身もゲイである千葉さんは、少数者を「弱い存在」として「保護者的な態度」が取られることを「不愉快」と一蹴した。

 リベラルだとか、保守だとか、多様性だとか、不寛容だとか。そんな乾いた政治的言語を超えて「おっさんずラブ in the sky」は、文字通り「空の上」にあるような、性的指向においてフラットな世界像を提示した。エンターテインメントだからこそ、なせる技でもあるだろう。

 その人があるように、その人が生きられる社会。テレビドラマは是非、そんな「楽園」の訪れを予感させてくれるような「カナリア」であってほしい。(奈良禄輔・共同通信記者)

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