2万9千通りの〝命の終わり〟硫黄島を巡る 戦車、大砲、地熱に蒸す地下壕

硫黄島の集団埋葬地にある朽ち果てた戦車

 ほのかに漂う硫黄の臭い、皮膚にまとわりつく南方特有のぬるい空気。戦場の息づかいが五感を通じて迫ってくる―。東京都小笠原村の硫黄島。太平洋戦争末期の激戦地であり、今は自衛隊の基地が置かれている。普段は元島民などを除き一般の立ち入りは制限されているが、1983年から続く都主催の戦没者追悼式には遺族が参列し、メディアも同行する。戦後75年となる今年は1月16日に開かれ、島に入った記者は旧日本軍が砲台とした摺鉢山や傷病兵が運ばれた地下壕を巡った。(共同通信=清鮎子)

 東京から南に約1250キロメートル。面積約22平方キロメートルの小さな火山島は日米双方にとって戦略的価値が高く、旧日本軍の兵士たちは死守することを命じられていた。米軍は約8カ月間の断続的な空襲、3日間の激しい艦砲射撃の後、1945年2月に上陸。旧日本軍は地下壕を張り巡らせてゲリラ戦を展開した。3月26日の陥落までに戦没者は日米で計約2万9千人におよぶ。

戦没者追悼式で献花する遺族ら

 戦没者追悼式の当日、遺族54人や都の職員らは都がチャーターした民間機で現地入りした。慰霊施設「鎮魂の丘」で式を営んだ後、約2時間半かけて島内の戦跡を巡拝する。

 最初に訪れたのは集団埋葬地。近くにはさび付いた戦車が、大きなくぼみからはい出すような姿で放置されていた。案内した自衛隊関係者によると、これは米軍のもので、穴を掘って戦車を落とす旧陸軍の「蟻地獄作戦」を模し、展示されているという。茶色に朽ち果てた姿とは対照的に、車体の前方には青々とした雑草が生えていた。

摺鉢山のふもとに残された大砲

 旧日本軍が砲撃の拠点にした摺鉢山のふもとには大砲が残る。もとは巡洋艦の大砲で、取り外して人力でここまで運んできたという。命令を無視して砲撃を開始したため、「勇み足砲台」とも呼ばれ、米軍の攻撃の的になった。島は「形を変えた」といわれたほどの米軍の砲爆撃にさらされていた。自衛隊関係者は「爆撃に耐えかね、どうせ死ぬなら一隻でも敵の船を沈めたいという気持ちになったのだろう」と当時の兵士たちの心中を推し量った。

 米海兵隊員が星条旗を掲げた写真で知られる頂上付近には、その写真を模した銅板を埋め込んだ米軍の記念碑があった。数十メートル離れたところには日本側の戦没者顕彰碑もある。わずかな距離を隔ててたたずむ碑は、かつて敵と味方に分かれて戦った両国の歴史の事実を思い出させる。

摺鉢山の頂上付近にある米軍記念碑

 傷病兵が収容されたとみられる「医務科壕」。当時のやかんや木箱が散乱する内部は地熱で蒸し、カメラのレンズが曇る。数十メートルほど進むと、腹ばいにならないと入っていけないような道にぶつかった。旧日本軍は米軍上陸に備えて全島要塞化を図り、地下10~30メートルに総延長18キロメートルにおよぶ地下壕を築いた。いまだ発見されていない壕もあるという。

 関係者によると、この壕で戦後しばらくしてからミイラ化した旧日本兵の遺体が3体見つかった。1人は喉に銃剣が突き刺さった状態で、自決したとみられるという。故郷から遠く離れたこの蒸し暑い洞穴で、命の終わりを知る。その時、何を思ったのだろう。思わず手を合わせた。

「医務科壕」の出入り口にある観音像

 豪の出入り口に安置された観音像には飲み水が供えられていた。島に河川はなく、兵士たちは喉の渇きにあえいでいたという。島にはほかに観音像が建立された場所が2カ所ある。これは旧海軍の和智恒蔵大佐が発案したものだ。和智大佐は硫黄島で海軍警備司令を務めていたが、陥落直前に転属したため生還。戦後は出家し、慰霊のため当時米国の占領下にあった硫黄島に上陸したいと嘆願し、米国の許可が下りた52年に実現させた。

 旧日本軍の最後の拠点となった天山壕の慰霊碑にたどり着き、巡拝は終わった。戦没者の子ども世代は70代、80代が中心。車いすに座った高齢の男性が、周囲から助けられながら震える手で献水していた。

 自衛隊の基地から民間機に乗り込み、羽田空港へと飛び立つ。機長の計らいで、島の上空を1度旋回した。この島には、いまだ約1万1千人の旧日本兵の骨が眠っている。

硫黄島=東京都小笠原村、2018年6月9日

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