【ARUHIアワード11月期優秀作品】『三日坊主の日々にも三年』藤田さいか

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アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集する「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた11月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

使い慣れた駅のトイレがいつのまにか改修工事を終えていた。四番線から六番線へと向かう途中、階段を登りきってコンコースに出ると、部分的に真新しい壁が人目を誘う。外国人旅行客の増加に合わせてなのか、主要な駅から順繰りにトイレが一新されていく中で、とうとうこの駅にも来たかと感心したのはつい最近のことだ。時の流れを不意に突きつけられた気がしてハッとする。自分が手持ち無沙汰でスマホを弄っている最中、大学の講義で寝ている最中、あるいはアルバイトの暇な時間に欠伸をしているちょっとの間にも、工事は着実に進んでいたらしい。定められた時間と予算の中で最低限の改修を終えたその空間は、憑き物が落ちたようにどこか晴れ晴れとしていた。
私はそそくさとその場を離れ、いつものように六番線へと続く狭い階段を下った。ホームではもう、乗るつもりの電車が口を開けて待っている筈だ。平日の昼下がりだと人もまばらで、ローカル線の車内では一人につき一つのロングシートが与えられる。階段を降りて見えるのは最後尾車両。今日も例に漏れることなく車内は閑散として、通勤通学の時間帯からは全く想像もつかない、穏やかな空気が留まっていた。乗り込んですぐ、ホーム側とは反対のシートに座り、スマホを取り出して何気なくSNSをタップする。鳥のマークが画面いっぱいに迫った後、映し出されたタイムラインを見て私は一瞬声をあげそうになった。
『M高校演劇部、地区大会突破しました!県大会に出場します!』
そこは私がかつて部長を務めた部であり、およそ十年もの間、参加賞以外の受賞記録を持ったことのない、言うなれば弱小部であった。私ははやる気持ちで高校演劇連盟のホームページへ飛び、審査員評価の欄を見る。我が母校はなんと、満票だった。三年前「台本から考え直しましょう」と審査員を唸らせた地区大会。彼らは今年、全く違う意味で唸らされたことだろう。
―やってくれたな、顔も知らない後輩たち
一つ、知らず止まっていた息を吐く。
秋晴れの空に昇る太陽の、容赦ない陽射しが次第に頭を熱くさせた。投稿欄に『まじか』『一度でいいからみてみたい』と打ち込んでから、二文の間に『おめでとう』を挟み込む。『!』も忘れない。返信ボタンに指が触れると、見栄えの良いつぶやきがタイムラインに流れていった。投稿日時は、五秒前。背後から降り注ぐ陽の光が、なんだか無性に煩わしく思えた。ブラインドを下げるために腰を浮かせれば、ふと、同じシートの端に座っている人と目があう。色白で化粧っ気のない、素朴な女性だ。彼女は一瞬目を丸くすると、ニッと歯を見せて手を振ってきた。それは私のよく知る人物、ユキだった。
「ハッピーバースデー、二十歳」
ユキは荷物を抱えながらこちらにやって来ると、開口一番そう言った。私は「あっ」と短く声を上げ、今日の日付を思い出す。忘れていたわけではない。ただ、誕生日というものが日常の中にすっかり埋もれていたのだった。
「サンキュー、今日初めて言われたかも」
「ほんまに?じゃあ、うちが一番か」
ユキはにっそりと笑って、私の隣に腰を下ろした。同時に発車の合図が聞こえてきて、ドアが気だるそうに閉まる。 電車が緩やかに動き出したのは、プシューッという音がしてから一拍した後だった。
「いやほんとに。お母さんなんかあれだよ、おはようすら言わずに『部屋掃除しろ』だからね」
「ハルの部屋散らかってるもんなぁ」
「半分ユキの部屋みたいなものでしょ。しょっちゅうゴロゴロしに来ちゃってさ」
「うん、まあ居心地はええしな。漫画読めるし、エアコンはよう効くし、汚してもわからんし」
けらけらと笑うユキに一言、いや、汚すなよと念を押す。
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私たちは中一の春、別々の所からこの地区―それもはす向かいの家に引っ越してきた。同じ境遇からすぐに意気投合し、知り合って八年が経つ今でも、片方の部屋に入り浸っては漫画を読んだりする仲にある。好きな漫画のジャンルは同じでも、不思議と、違うものを持っていることが多いのだ。
「そや、二十歳になったんやし一緒に宅飲みでもしようや」
「あぁ良いね、大人って感じで。どっちの家でやる?」
「掃除がてらそっち行こかな」
「ほんと?じゃあついでにレポートも片付けといてくれる?」
「いや、ついでの範囲超えてるわ」
「知ってるよ」
「なんやねん」
ユキとの他愛ないやり取りが風景と共に流れていく。車窓から見えるのは、ワイドショーで取り上げられるようなこともない平穏な街だった。バイト先のスーパーを通り過ぎる。先輩アルバイターの橋本さんは今日も「俺がこのスーパーを回してるんや」と息巻いているのだろう。電車はもう間もなく次の駅に到着するようで、聴き慣れた独特な車内アナウンスが駅名を繰り返し告げていた。そこが私たちの最寄駅だ。発車からおよそ二分。定刻通りだった。

「キーボードめっちゃ埃かぶってますけど、これ音出るん?」
「さぁ、どうだろう?もうだいぶ弾いてないからわかんない」
「てかハルって、ピアノ弾けたん?」
「いや、ユキほど弾けないよ。ピアノ教室は一年半で辞めちゃったから」
部屋の掃除をしている最中。小学校の入学祝いに祖父から貰ったキーボードが、押入れの奥、鍵盤の隙間にまで埃が詰まった状態で発見された。綺麗にしたところで今後弾くことはないだろうなと思いながら、ユキと一緒に雑巾で埃を拭い取る。
「そうなんや。ゆーてうちもソナチネ入るくらいで辞めたんやけどな。ソナタとか無理やわ」
「わかる。あ、でも中学の時、ソナタやってる子クラスにいたよね」
「道重さんやっけ?めっちゃ上手かったもん、覚えてるで」
「あれくらい弾けたらこのキーボードも使う気になるんだけど」
私はため息混じりにそうぼやいて、大きく肩を落とした。生まれてこの方二十年、私は物事を長く続けられた試しがない。小一で習い始めたピアノは初級のバイエルで辞めたし、中一の時に入ったバドミントン部も、その年の冬、三年生と共に引退した。その他ダイエットや美容エクササイズなど、一週間から数ヶ月の内に辞めてしまった物事なんて数え上げればキリがない。結果が出るともわからないことに、時間をかけるのは嫌だった。
ユキが鍵盤を拭く手を止めて、取り外された譜面立てを見る。そこには演劇部時代に使っていた台本のいくつかが、くたびれた様子で並んでいた。高校を卒業するまではキーボードを部屋に組み立ててあったので、譜面立てが台本置き場になっていたのだ。
「ハルはピアノっていうか演劇やろ」
ユキの頓珍漢な発言に、私は思わずため息をつく。
「あのね、私たちの舞台を観たことがないからそう言えるんだよ。ほんと酷かったんだから」
「審査員に台本があかんとか、ボロカス言われたんやっけ?でもハルの台本、未完のままでもおもろかってんけどなぁ。友達も続き気になる言うてたし」
「何勝手に人に見せてんの?」
「人に見せたくなるくらいええと思ったんよ~」
ユキが尖らせた口を、手にした藁半紙の束で隠す。それは高二の夏、地区大会で使う台本の候補として、部内選考会に提出した私の作品だった。ユキの指の隙間から覗く最後のセリフが、句点を打ったきり、今も続きを待ち侘びている。だが、私に続きはもう書けない。その句点を打った時、フッと、多くの時間をかけていたことに気づいてしまったからだ。
「言っとくけど地区大会では、それ、使わなかったよ。やったのはネットで見つけた既成作品」
「え、そうやったん?」
ユキが目を丸くして私を見る。続けて「なんで?」と訊いてきた。何故も何も、未完なんて論外だし、多数決でそう決まったとしか言いようがないのだが、心当たりを一つ思い浮かべて「あー」と低く唸る。
「皆、やりやすそうなのが良かったんだって。ほら、創作だと演出から照明まで自分たちで考えるでしょ?既成作品だとある程度決まってるから」
三年前の部員の言葉を、私はそっくりそのままなぞっていく。
―どうせ結果なんて出ないんだから、せめてそんなに努力もいらなそうな、なんとなく五十分が経ちそうな脚本で良くない?
私が唯一長く続けて、部長まで務めた演劇部は、そういう所だった。nextpage

ヘアピンやヘアゴム、イヤホンのイヤーピース、レポートを挟んでいたクリップ。日々使う些細なものはよくなくなる。修学旅行の時に買ったトランプ、古いカメラの充電器、必要のなくなったUSBメモリ。普段使わないものはいつのまにかなくなっている。そういった物を無くした時、私は探し出そうとしないから、見つけられることはあまりない。だけどユキは、不思議とそれらを見つけるのが上手かった。
「懐かしいね。卒業したの、何年前になるんだっけ?」
「高校が去年やから、中学は四年前になるんかな?」
本棚の裏から出てきた中学校の卒アルを、広くなった折りたたみテーブルの上で開く。他にあるのはポテチと柿ピー、それからアルコール3%の缶チューハイが四本。約三時間にも及ぶ掃除を終えた私たちは、いよいよ宅飲みを始めていた。
「うわ~、みんな変わってへん!」
「写真なんだから当たり前じゃん」
「ほんまやな。なんか久しぶりに会った気分になってたわ」
三年三組の生徒三十八人と、担任の先生、副担の先生が、四年前の姿のまま、見開き一ページの中で笑っていた。私とユキは同じクラスだった。こうして見比べてみると彼女はちょっと痩せた気もするが、肌の白さと陽だまりのような明るさには、なんの陰りも見られない。私はと言うと「髪が伸びて顔がちょっとシュッとしたくらい」らしかった。話題は自然に、誰それが何してる、というものへ移っていく。
「こないだ中川に会ったら、髪の毛紫になってた」「鳥谷バンドやってんねんで。動画あげてはったわ」「ミユナと田口、結婚したってほんと?」「道重さん、やっぱ音大行ったんやなぁ」
卒アルで名前を確かめながら、SNSで誰かの繋がりを手繰りながら、他人のアカウントを探し当てる。生活を覗かれないためには、この部屋のカーテンを閉めることよりも、アカウントに鍵をかけることの方が私にとっては重要だ。
「そういや三浦はK大行ったんだっけ。凄いよね」
「どっちの三浦?」
「頭いい方の」
私は柿ピーの小袋を開けて、数粒を手のひらに乗せた。柿の種は多めで、ピーナッツは二個くらいがちょうど良い。
「あー、あいつな」
ユキが新しい缶チューハイを手にとって、プルタブの輪に指をかけた。
「K大辞めたで」
パキッ、プシュッ。密封されていた缶の中身が、新鮮な外の空気と混ざり合う。一粒の柿の種が、傾いた私の手からこぼれ落ちた。K大、中退。
「うっそ、なんで?勿体無くない?」
「なんでって、まあ、大学行きたくなくなったんやろ」
「だから、それが謎」
「うちもそこまで知らんよ。辞めたっていうのも又聞きやし。なんか夢があって、やったような気するで」
"知らんけど"ユキは最後にそう付け足した。責任は持ちませんよ、という宣言なんだろう。思わず開いた口が何か喋り出す前に、私は手にした柿の種を全部頬張る。
―夢って、ねぇ
夢に向かって頑張る人を追いかける企画は、スポーツ、バラエティー、ドキュメンタリーとジャンルを問わずによく見かける。「今売れるのは、努力の過程」どこかのコメンテーターがそう言っていた。「あの選手が作っていた夢ノートを、皆さんも作りましょう」高校の先生は私たちにそんな課題を与えた。 みんな、誰かの頑張る姿が好きだった。私も昔は好きだった。だけど今は、その姿を見るたびに―いや、多分、綺麗になった駅のトイレとか、大会に優勝した後輩とか、同級生のSNSとか、そういうのを見るたびに、背中がヒヤリとしてしまう。
「K大捨ててまでやりたいことって、なんだろね」
学歴を捨てて、夢のために時間をつかって、それで何にもならなかったら、三浦はどうするのだろう。「今何してる?」「これからどうするの?」という質問に、まだ結果を出していない彼はどう答えるのだろう。
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米菓子の張り付く口内をアルコールでゆすぐ。ユキはしばらくスクリーンに親指を滑らせた後、私にスマホを差し出した。
「そんなに気になるんやったら、もう直接本人に聞いたらええやん。こっちのアプリで匿名の質問箱置いてるで」
パッと目に飛び込んできた『三浦 孝明』という名前を睨みつけて、彼のホームをスクロールする。最新の投稿は十五時間前。ということは、今日の深夜くらい。四人の男がごちゃついたワンルームをバックに、笑顔で缶ビールを掲げている写真の本文には一言、『俺もついに二十歳』と書いてあった。
「あいつ、鍵かけてないんだ……」
「せやねん。本名で趣味も生活も晒すとかある意味凄いよな」
「うん。ていうか、誕生日一緒って今知ったんだけど」
「うちも。あんたら生年月日系の占いやったら、同じ性格出るんやな」
「いや有り得ないって。あいつ絶対、違う世界に生まれてるでしょ」
ユキがコンソメ味のポテチを新たに開けながら「そんな否定せんでも」と笑う。別に冗談のつもりではなかった。
「だって私、三浦と違って凄くないし」
きっと私は誰よりも凄くなかった。三浦が大学を辞める頃、道重さんがピアノを弾いている頃、後輩が部活に励んでいる頃、駅のトイレが工事中の頃。私は多分、時間に運ばれながら、日常の風景をただなんとなく眺めていただけだった。
アルコールがずいぶん回ってきたせいか、血液が慌ただしく全身を駆け巡っている。私はひょっとすると、酔うと沈んでしまうタイプなのかもしれない。
「うちな」
ユキがコンソメのよく焦げたポテチを摘み、大きな口でぱくりと食べた。サクッサクッ。小気味良い音はものの数回でしなくなる。
「こないだ描いたイラストが、幻想的な夕日特集っていうコラムに載ってん」
「えっ凄いじゃん」
せやろ~?とユキが口をすぼめて、ひょっとこみたいな顔をする。また、背中がヒヤリとした。
「でも別に、特集のために描いたわけちゃうねんで。うちの部屋からたまたまめっちゃ綺麗な夕日が見えて、それを描いたらそうなっただけねやねん」
「だけやねんって」
簡単に言うなよ、と音に乗りかけた言葉を「悪いけどな」ユキが先回りして遮った。空っぽのアルミ缶を顎の下で握りしめているのは、マイクのつもりなんだろうか。
「簡単に言わせてもらいます~。うちはとにかく、目の前のことに必死なだけでした」
言い切ると同時に、マイクだったアルミ缶が机の上に叩きつけられる。
―目の前のことに、必死
カーンという鋭くて細い衝撃音が頭の中で反響する。そうして、三年前の、地区大会に向けて台本を書いていた頃の自分の姿が、はっきり頭に思い浮かんだ。
「でもそれはうちだけちゃうよ。道重さんも三浦もハルも、目の前にある日常をこなすことに必死なんは、皆変わらんと思うねん。うちらにとって大切なんは、凄いことをすることやなくて、日常の中に目を凝らして何かを拾い上げていくことなんちゃうの?」
"多分やけど"その一言は"知らんけど"よりも信憑性を持っている。ユキはやっぱり、ものを見つけるのが上手いと思った。nextpage

太陽は鮮やかな夕焼けを残して山の向こうに沈み、ユキは家に帰った。机の上に残されたのは、スマホとケースに入った卒アルと、未完成の台本だけだ。私は台本を裏返して、最後のセリフを指でなぞった。
―どうせ結果なんて出ないんだから
―目の前のことに、必死
小学校のピアノ教室、中学校のバド部、高校の演劇部。結果を出すために時間をかけるのが嫌で、ダメだと分かればすぐに物事を諦めるような―そんな人間が唯一演劇部だけを続けられたのはきっと、「目の前のことに必死」になれる瞬間がそこにはあったからだ。そして台本を書いていた時間の中に、多くの時間をかけていることすら忘れてしまうような「一瞬」は確かにあった筈なのだ。
「終わり方、どうしようかな」
凄いやつ、とかいう見えない背中を追いかけていた当時の私に、物語の結末なんて見えなかっただろう。だから今度は日常の中に目を凝らし、そこで見つけた何かを拾い上げていけば、結末の輪郭が見えてくる気がした。ユキも三浦も道重さんも、そうやって自分の輪郭を作っている。
ピコン、という通知音がして、画面上方に小さなウィンドウが表示された。どうやら昼間の投稿に返事が来たようだった。
『お久しぶりです、先輩。本来なら三年生は地区大会前に引退しますが、僕は進路が決まっているので、照明として舞台に関わっています』
『良かったら是非見に来てください』
立て続けにメッセージを受け取る。背中はヒヤリとしなかった。そしてまた新たに浮かび上がったウィンドウを見て―
『差し入れは、台本の続きでお願いします』
―やってくれたな
知らず、笑みがこぼれた。あの汚い部室から台本のコピーを見つけるなんて、彼らもものを見つけるのが上手い。
『差し入れ持って観に行くよ』
私の親指が、スクリーンの上を軽やかに踊る。私の生活を、顔も知らない誰かが覗く。それで良かった。今はただ、二十歳になったことを皆に知らせたい気分なのだ。

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