月見草、ID野球、ぼやき…代名詞で振り返る「ノムさん」

1993年11月、ヤクルトがプロ野球日本一になり、ナインに胴上げされる野村克也監督=西武球場

 球史に残る名捕手、戦後初の三冠王、ID野球の生みの親…。数々の代名詞が付くほどに野球界に偉大な足跡を残した野村克也さんが11日、84歳で死去した。その長い球歴から「ノムさん」と聞いて思い浮かべる姿は、年代や住む地域によってさまざまだろう。自らを月見草に比した現役時代から、名将とうたわれた監督時代まで、象徴するキーワードとともに振り返る。(構成、共同通信=松森好巨)

1960年7月のオールスター第3戦で、重盗を試みた長嶋茂雄を本塁でタッチアウトする野村克也=後楽園

 ▽ささやき戦術

 試合中「打撃フォーム変えたの?」などとマスク越しにささやき打者の集中力をかき乱した。ただし、巨人の長嶋茂雄には会話がかみ合わず通用しなかったそう。

 ▽月見草

 1975年、巨人の王貞治に次ぐ史上2人目の通算600本塁打を達成。その試合後、絶大な人気を誇った巨人の長島、王の「ON」を日の当たる「ヒマワリ」に例え、自らをひっそりと咲く「月見草」と呼んだ。実は、大きく報道してもらおうと1カ月前から考えていた談話で、以降は代名詞となった。

プロ入り通算600号ホーマーを放ち、記念に贈られた花束を高々と掲げスタンドの声援に応える野村克也=1975年5月、後楽園

 ▽ID野球

 ヤクルト監督時代に掲げたデータ重視野球。IDはインポート・データ、またはインポータント・データの頭文字。スコアラーの集めた資料を基に配球などを科学的に分析。確率の高い戦術をとった。

 ▽再生工場

 伸び悩む選手や他球団で構想から外れた選手を、起用法やコンバートなどで再生させた。南海(現ソフトバンク)で山内新一、江本孟紀をエースに押し上げ、ヤクルトでは小早川毅彦を、楽天では山崎武司を生き返らせた。

 ▽ぼやき

 「マー君、神の子、不思議な子」や「ぼやきは永遠なり。勝ってはぼやき、負けてはぼやき。気持ちよく帰られる日はいつの日ぞ」などと語った試合後のインタビューも人気を博した。楽天時代のぼやきはDVD(「ドキュメント『野村監督語録集』~名将かく戦い かく語りき」)にもなった。

敗色濃厚な展開に、ため息をつく楽天・野村監督(上)=2009年5月

野村克也氏 京都・峰山高から1954年にテスト生で南海入団。3年目に定位置を獲得すると強打の捕手として活躍し、65年に戦後初の三冠王に輝いた。70年から兼任監督を務め、73年にリーグ優勝した。「生涯一捕手」を貫きロッテ、西武と渡り歩き80年に45歳で引退した。

 通算3017試合出場、2901安打、657本塁打、1988打点は歴代2位。8年連続を含む本塁打王9度のほか、打点王7度、MVP5度など数々のタイトルを獲得しベストナインに19度選ばれた。通算打率は2割7分7厘。89年に殿堂入りした。

 90年にヤクルトの監督に就任し4度のリーグ優勝、3度の日本一を達成した。99年から阪神監督を務め3年連続最下位に終わった。社会人野球シダックス監督を経て2006年から球団創設2年目の楽天で4シーズン指揮を執り、09年には2位に押し上げて球団初のクライマックスシリーズ進出を果たした。監督通算1565勝1563敗76分けで、勝利数は歴代5位。

楽天監督として最後の試合。クライマックスシリーズの日本ハム戦終了後、両軍の選手らから胴上げされる野村克也監督=2009年10月、札幌ドーム

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