ノムさん兄、家計支え弟に野球の道 貧乏経験「苦労がアイデア生んだ」と回想、古里に納骨へ

「克也には、本当によく頑張ったねと言いたい」としのぶ野村嘉明さん(京都市西京区)

 戦後のプロ野球を代表する選手、監督だった野村克也さんが11日に84歳で亡くなって1週間となる18日、兄の嘉明さん(87)=京都市西京区=が京都新聞社の取材に応じた。京都府網野町(現京丹後市)での貧しい生活を経て、野球で身を立てた弟。「苦労が多かったからこそアイデアを生み出せるようになったと思う」。家計を支えて弟の野球への道を後押した兄が、3歳下の弟の思い出を振り返った。

 11日午前2時ごろ、「救急車で運ばれた」と克也さんの長男克則さん(現楽天コーチ)の妻から連絡が入った。1時間後に死去が伝えられた。その朝には東京へ駆けつけ、14日に近親者で行われた葬儀に出た。棺で眠る弟に対面し、「野球で大きな記録をつくり、本望だっただろう。私より先に逝くとは、ちょっと早い」。寂しげにつぶやく。
 「克也は本当に野球一筋だった」。網野中、峰山高とずっと4番で捕手。ただ、生活は苦しかった。実家は食料品店を営んでいたが、戦時統制で商品を仕入れられず店を閉めた。嘉明さんが6歳の時に父は亡くなり、母のふみさんは織物の内職などで2人を養ったが、がんに見舞われた。幼い兄弟は生活のため、新聞配達や土木仕事、近所の子守もした。「(新設中だった)網野高の建設現場にも行った。グラウンドの土を運ぶ仕事はきつかった」と振り返る。
 克也さんの高校進学には、嘉明さんの支えがあった。母は就職を望んでいた。当時峰山高3年だった嘉明さんは京都市内の島津製作所へ就職が決まっており、「(克也は)野球の才能があるから高校に行かせて。自分が仕送りする」と説得した。嘉明さんは弟のプロ入りを見届けた後、仕事を続けながら京都工芸繊維大の夜間学科に通った。感謝を直接伝えられたことはないが、克也さんが「自分が野球を続けられたのは兄貴のおかげ」と語っていた記事がうれしかった。
 弟の活躍を追いかけ、新聞記事のスクラップを続けてきた。自宅にある克也さんの著書は約50冊に及ぶ。本を通じて野球観、人生論に触れ、「根底には貧乏の経験があると思う。やっぱり苦労は買ってでもしないと」。著書は「後輩たちの役に立てば」と、峰山高へ寄贈した。
 嘉明さんは会社員時代にバドミントンに熱中し、京都府バドミントン協会の理事長も務めた。技術者としても医療機器などの開発に携わり、再就職を含めて75歳まで勤めた。「エンジニアとしての人生に悔いはない」。ベテランを復活させ「再生工場」と評された弟に似た顔で、うなずく。
 分骨した遺骨を京都に持ち帰ってきた。「お袋といっしょに入れて欲しい」。弟から直接託されていた願いをかなえるため、春には網野町の墓に納骨するつもりだ。

京都府京丹後市の「野村克也ベースボールギャラリー」に展示されている少年時代の克也さん

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