樺美智子とは何者だったのか  恵まれない人への強い関心から闘争へ 日米安保60年(2)

By 江刺昭子

樺美智子。全学連慰霊祭の遺影

 安倍晋三の祖父、岸信介が首相に就任したのは1957年2月。3年後には民意を踏みにじって米国と強引に新安保条約を結ぶことになる。これに反対する闘争の中で、伝説的人物として語られる樺(かんば)美智子が、東大に入学するのは57年4月。その月のうちに「原水爆実験反対」のデモに参加している。

 岸内閣が退陣に追い込まれたのは3年半後の60年7月であり、樺美智子が22年の生涯を閉じるのは60年6月だった。現実には決して交わることのなかった2人だが、登場と退場の符節は一致する。痛み分けとするには、断たれた彼女の未来があまりにも惜しい。

 樺美智子は1937年11月、東京で生まれた。父俊雄は大学教員、母光子も日本女子大卒という知的な家庭だった。豊かで自由な環境でのびやかに育てられ、兄が2人いるが、両親は女の子だからと差別はせず、娘に期待を寄せている。

 戦時中に疎開して8年余、静岡県の沼津で暮らした。富士山を目の前に仰ぐ風光明媚な地だが、漁村は貧しい。まともに食事をとれない「欠食児童」が少なくない戦後、樺家のハイカラな暮らしぶりと、彼女が飛び抜けて優秀だったことが語り草になっている。感受性の強い彼女が、貧富の差に気づき、恵まれてあることの後ろめたさを感じたのは、この時期だったと思われる。

神戸高校卒業のとき。左端が樺美智子

 父が神戸大の教授になったことから、中学1年で兵庫県芦屋市に転居し、県立神戸高校に進む。勉強やスポーツに励み、読書欲も旺盛だった。宮本百合子を愛読し、主人公の感じ方が自分と似ていると、友人に打ち明けている。

 「時間が足りない」が口癖。中学2年の終業式の日、母親に「今年は私は1時間も無駄にしなかった」と晴れ晴れとした表情で話したという。

 まっすぐな性格だった。おかしいと思ったら、相手が教師であっても臆せず主張する。

 男子が多い神戸高校で、早くも性差別に疑問を持つ。自治会の役員になぜ女子が立候補しないのか、体育祭の練習はいつも男子優先で女子が待たされるのはなぜなのか。そんな問題提起をして、全校アンケートまでした。

 京大総長の滝川幸辰が高校に講演に来て、女子は良妻賢母がいいと話したときは、気色ばんで滝川に抗議しようとして友人に止められている。

 炭鉱不況で鉱夫の家族が困窮しているのを知ると、救援カンパを集めて送った。恵まれない人への関心から社会主義思想に傾斜していく。時代は政治の季節であり、学生だけでなく労働者も市民も、街頭デモやストライキで政府や資本家への抗議の意志表示をした。特に米軍基地の拡張や米英の核実験には各地で抗議運動が燃え上がった。

樺美智子の1957年11月の小遣い帳。自分の楽しみのための支出がほとんどないのに、運動や困っている人の支援には出費を惜しまない

 東大に入学した直後にクラスの自治委員に立候補し、デモにもしばしば参加している。一方で学業も手を抜かず、歴史学研究会でサークル活動もしながら、社会科学系の本を多読した。

 岸信介のほうは首相就任後まもなく、自衛のための核兵器保有は憲法解釈上、禁じられていないという趣旨の答弁で物議をかもす。政権発足から4カ月後には米国を訪問し、安保条約改定に関わる協議を開始。反対勢力を抑え込む意図で警察官職務執行法(警職法)改正案を国会に提出したが、激しい反対運動が起こって法案は流れる。

 安保反対運動をリードしたのは、社会党や総評を中心とする安保条約改定阻止国民会議(国民会議)だった。しかし、その傘下団体である全日本学生自治会総連合(全学連)の主導権を握ったのは、共産党を離党した学生らによって58年11月に結成された前衛党・共産主義者同盟(ブント)である。樺美智子も早い時期からブントに加盟し、書記局を支えている。 

 ブントは日本帝国主義打倒を掲げた。安保条約を葬ることを目標とし、より先鋭な運動方針を打ち出す。これに対して共産党系の学生らは、全学連の反主流派として、ゆるやかなデモ行進から流れ解散で抗議の意志を示した。

 権力を握る者への対抗軸がまとまらない構造は今に続く。

 樺は3年の秋に文学部学友会の副委員長になり、学友たちに主流派の方針を説得する。59年11月27日の国会突入と、翌年1月16日の羽田ロビー闘争に参加したのも当然のことだった。羽田闘争で検挙され、17日間の勾留を経て帰ってきた美智子は、父が文芸春秋に書いた「全学連に娘を奪われて」という文章に肩身の狭い思いをしながら、かえって強い意志で運動にのめり込んでいく。

 60年4月26日、全学連は首相官邸に突入する。唐牛(かろうじ)健太郎委員長ら幹部は装甲車を乗り越えて警察官の群れに飛び込み、逮捕された。樺も装甲車を乗り越えたという人がいるが、真偽は不明だ。その日の夕方、九州に転勤する次兄を見送るため、東京駅に現われた彼女は泥だらけだった。

 5日後のメーデー。心配する母は街頭に出て、デモの隊列の中に娘を発見する。隊列は「アンポ」「ハンタイ」を連呼している。

 

「東大文学部自治会の旗の長いすそが娘の黒い髪の上を何度もなぜて、私がみつめている姿をその度にかくした。私は動く気力もなくたたずんで、心に残るその影を追ったのだった」(樺俊雄・樺光子著『死と悲しみをこえて』)

 娘の闘う姿を見るのは、これが最後になる。闘う娘と見守る母の姿が浮かんできて、読むたびに目頭が熱くなる。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

日米安保60年(1)

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