樺美智子「運命の日」 警官隊と衝突、斃れる 日米安保60年(4)

By 江刺昭子

亡くなる数時間前、デモ行進する樺美智子

 日米新安保条約は、1960年5月20日に衆院で強行採決された。これにより、参院の採決なしでも1カ月後の6月19日には自然成立することになった。そのタイムリミットの4日前、6月15日が、樺(かんば)美智子にとって運命の日となった。

 反対運動を主導した安保改定阻止国民会議(国民会議)はこの6月15日をヤマ場とし、全国に統一行動を呼びかけた。国民会議の中心となった総評傘下の組合を中心に、全国で実に580万人が抗議行動に参加した。

 今では考えられない規模だが、軍事同盟に対する拒否感情はそれほど強かった。戦争の記憶が色濃く、平和への希求は切実だったのだ。

 その日、東京のデモ隊は、国会、首相官邸、アメリカ大使館などを目標とした。統一行動の模様を伝える朝日新聞夕刊1面の見出しは「六・一五統一行動/大した混乱なし」。至って穏やかなスタートだった。夕刊締め切りの午後の早い時間までは。

 全学連主流派のデモは午後4時ごろから始まった。全学連委員長代理の北小路敏(さとし)、都学連副委員長の西部邁(すすむ)らが乗った宣伝カーが先導し、東大、明大の順で各大学が続き、最後尾の早大とつながったまま国会を2周。先頭集団に樺もいた。

 同じころ、国民会議が主催する請願デモも続々と国会周辺に集っていた。そのなかの新劇人グループや市民のデモ隊に、右翼の「維新行動隊」がカシの棒で殴りかかった。女性の多い新劇人と市民約70人が負傷したのに、警察官が傍観していたと学生たちに伝わり、怒りの引き金を引いた。

 全学連デモ隊の中の「工作隊」が国会の南通用門の扉を外した。守備側がバリケードにしていたトラックを、学生たちが引っ張りだす。構内には約1千人の武装警察官と100人を超える私服警官がいたが、一瞬うしろに引いた。

 誘われるように入り込んだ学生たちを警察が包囲した。指揮者の「かかれ!」の合図で、警棒を振りかざして「やっつけろ」とかかってくる。前の方にいた学生は、警棒で頭、顔、肩を乱打され、腹を突かれた。逃げ出す者を追い、うずくまっている者を叩いて、後方の私服警官に検束させた。社会党の議員や報道関係者が制止しても、警官隊の暴行はやまなかった。混乱のなかで樺は斃(たお)れた。これが第1次の激突である。

6月15日、警官隊との激突で多数の学生らがけがをした

 女子学生が死んだと門外の学生たちに伝わり、再び学生が構内に入る。9時ごろ構内で黙祷した。その後、また学生と警官隊がぶつかり、多くの負傷者が出た。

 警察側は門の外の学生たちにも催涙ガス弾を撃ち込み、逃げるのを追って警棒を打ちおろした。学生を心配して国会周辺に集まっていた教員や大学職員にも襲いかかり、教授陣からもけが人が出た。16日午前2時ごろまで続いた激突で、学生の検挙者182人、負傷者は589人で、うち43人が重傷を負う。救急車が48台も出動した。

 樺は救急車で飯田橋の警察病院に運ばれた。文学部学友会委員長の金田晋(かなた・すすむ)と同期生の北原敦(あつし)が呼ばれて遺体と対面し、樺美智子と確認。金田はそのままパトカーに乗せられて西荻窪の樺家に行くが、留守だった。

 時間を少し巻き戻して、この日の樺の行動をたどろう。

 いつものように半徹夜で勉強をした樺は、朝になってクリーム色のカーディガンにチェック柄のスカートで家を出た。午前中は近世史のゼミでレポーターを務め、昼食後、スラックスに着替えて地下鉄で国会正門前に行き、抗議集会に参加する。雑誌『マドモアゼル』(小学館)の記者がデモに伴走しながら、写真を撮らせてくれと頼むが、「わたくし、こまるんです」と断っている。

死の数時間前。デモ隊の中の樺美智子

 マドモアゼルの記者は樺に、この行動によって国会を解散に追い込み、安保改定を阻止できると信じているのかと問いかける。樺はこう応じた。

 ―「はい、信じています。わたくしはわたくしの信念にしたがって行動しているんです」。一瞬、あなたの声は強くはりつめて、その語尾は、泣くかのようにふるえていた―

 南通用門前の学生たちに警官隊が放水し、彼女はビニールの水玉模様の風呂敷で頬かぶりした。その姿がお茶目で周囲の者が笑った。同期の榎本暢子と卒論の進行具合を話し合ったのが最後になった。死亡推定時刻は15日午後7時10分から13分ごろ。

 父の俊雄は、学者・研究者グループによる「民主主義を守る会」の抗議デモに初めて参加し、騒がしい南門前に行き、死者がわが娘とは知らずに黙祷している。現場を離れ食事に立ち寄った店のラジオで娘の名を聞き、深夜、東京・飯田橋の警察病院に駆けつける。

 母の光子も娘を心配してひとりで国会周辺に行くが様子がつかめず、池袋の実家に帰り着いた。遺体と対面を果したのは夜明け近く。遺体の顔はきれいで、ほほえんでいるようだったという。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

 【注】検挙者数などは『現代教養全集 別巻 一九六〇年・日本政治の焦点』(1960年9月、筑摩書房)による。

日米安保60年(1)

樺美智子とは何者だったのか 日米安保60年(2)

逃げずに闘い続けた樺美智子 日米安保60年(3)

樺美智子、死因の謎 日米安保60年(5)

樺美智子が投げかけた問い 日米安保60年(6)

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