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「文句を言う人ってだいたい当事者じゃないよね」って?
歌舞伎町を歩きまわり、いちごミルクの缶ジュースを探していたのは、どんよりした気持ち甘いものでごまかせるかなと思ったからでした。
お昼ご飯を食べるついでに散歩をすることが多い裏通りで、わたしには見向きもしないキャッチの男性が「無料案内所」の看板をテーブル代わりにしていちごミルクの缶を灰皿代わりに使っているのを見かけてから、「そういえばいちごミルクって紙パックでしか飲んだことないな…」と、気になっていたのを思い出したのです。
その日、わたしがどんよりとしていたのは、出かける前に見たネットニュースの記事が原因でした。吸血鬼に噛まれると同性愛者になってしまうという映画の話題。人の性についてパニック映画のように扱うのは嫌だと思ったのですが、映画についてのお話しはここでは書きません。引きずられてしまったのはその記事についていたあるコメントでした。
見ている間にもコメントは増え続け、自然と一番上になっている書き込みが目に入ります。
「文句を言う人ってだいたい当事者じゃないよね」
え…。
書かれたのはほんの数分前でした。
その言葉を思い出すと、日中の繁華街のざわめきが一瞬消えてしまったように感じます。
当たり前だと思っていることが当たり前ではない。わたしはまたそれを忘れていた。そのたびこの気持ちを噛み締めていかなくてはいけないのかと思い、やけになって自動販売機をまわっていたのです。
ほんとうにわたしは、「当事者じゃない」のでしょうか。
「見ている側こそ当事者だ」と思った日のこと
まずは、すこし自分自身のできごとを振り返ってみます。
わたしはもともと人より地声がだいぶ高いことがコンプレックスなので、それをおもしろおかしく指摘されたり、時間を埋めるために適当にかわかわれたりすることが嫌です。ましてや、「成宮に触られたら高い声が感染する」と言われたらすごくつらい。
「そのひとに噛まれたら高い声が感染する」なんて映画ができたら、きっともう声なんて出したくない。ときには、「それは個性だよ」と簡単に言われてしまうこともある声/自分で変えられない持って生まれたものは、根深く、簡単には触れられたくない部分なのです。
以前、トークイベントで似たようなことを経験しました。
わたしが喋った途端、わざと高い声で真似をされたのです。「やめてくださいよ」と言ったのですが、びっくりしすぎてきっとわたしは笑顔だったと思います。傷ついた反動で、人は衝動的に笑顔を浮かべてしまうから不思議です。
悪意をぶつけられても瞬発的にはそれを言い表せない。
だって、まず傷ついてしまうから。
あのとき、わたしはその状況をただ見ている人のことをとても恨めしく思いました。家に帰ってひとりになってから、見ているだけだった人や、一緒になって笑っていた人の顔を思い出します。
笑い出してしまいそうなほど冷酷な気持ちになって、あの場所にいた人の表情を振りかえって思ったことがあります。
わたしにとっては見ている側こそあの出来事の「当事者」でした。
その当事者たちのことを、とても憎いと思ったこともよく覚えています。正直に言うと、たくさん時間がたってもあの日の気持ちが消えないからです。
エンターテイメントは人を傷つけてもいいのか
ショックな気持ちが少し落ち着いてから、「あのときはほんとうに嫌でした」と伝えたところ、「あれはお笑いの手法の一種だから」と返されました。このときも、耳がキンと遠くなり、周りのざわめきが一瞬消えたように思えました。
あなたのエンターテイメントは人を傷つけてもいいものなのか。
どうしてあのできごとをいけないと思ったのか、なにがいやだったのかということを、わたしのできる限りの言葉で伝えましたが話しは平行線のままでした。そのうちわたしの気持ちは折れて、その人たちから距離を置くことにしました。
自分がどうしていやだと思ったのか、その気持ちを掘り続けることをもう頑張れなかったのです。
揶揄されたときに、どうしてそれがいやだと感じたのかが伝わらないとき、絶望的な気持ちになります。
つい、傷ついた自分が面倒臭い人だったかのように錯覚をしてしまったから。
たとえ、「当事者じゃない」としても
それでもわたしたちが「当事者じゃない」としたら。
クラスでそれぞれ右隣の席のひとの似顔絵を描くと考えます。
完成させたあとに、「これはエンターテイメントのパフォーマンスです」と笑顔で似顔絵をぬりつぶすように真っ黒のクレヨンでぐちゃぐちゃにされてしまったら。
自分がされた場合じゃなくても、わたしはきっと嫌な気持ちになると思います。そして、「それはひどいよ」と言うことは、「文句を言う人ってだいたい当事者じゃないよね」と冷笑されるようなことでしょうか。
それでもなお、「当事者じゃない」と思われたとして、もし身近な親しい人が、あるいは家族が当事者だったらどうでしょうか。「当事者じゃないくせに」と言わてしまうでしょうか。
わたしは、どうか、そうであってほしくはないと願います。
世界で起こるすべてのことを目の前で起こっていることのようにとか、インターネット越しに見た悲しいニュースをまるで自分のことのように、と思えるほどの想像力はわたしにはありません。
そうありたいとは思うけれど、日々を生活していくことに気持ちがいっぱいで、そこまで細やかな思いやりをもつことができないからです。
けれど、明日は自分かもしれないと思うことはできます。
自分のできるときにできる範囲のぶんだけ、考えることができます。
だからこそ、「みんなおたがいさま」というくらいの気持ちは保っていたいと願うのです。
人が傷つく可能性がゼロのものなどないけれど、そこに近づけることはできるはず。世界は分断されてはいないはずだけれど、できることなら傷つける可能性も「手法」であるとは思わない場所で暮らしたい。
わたしたちはそれぞれ、そのくらいの想像力くらいもっていてもいいじゃないか。
力をもったひとが大きな声で、「冗談を本気にするな」と笑うことに、それは違うんじゃないかと思うように、今後もずっと想像するということが時代遅れにならないようにあるために、わたしにできることはこんな当然(であってほしい)ことをわざわざ声に出して、そうだよねと確認しあうことくらい。
そしていずれ、そんなことすら必要がなくなればいいなと思うのでした。
ねえ、それって、難しいですか。
(文◎成宮アイコ 連載『傷つかない人間なんていると思うなよ』第三十三回)
成宮アイコ
朗読詩人。朗読ライブが『スーパーニュース』や『朝日新聞』に取り上げられ全国で興行。好きな詩人はつんく
さん・好きな文学は風俗サイト写メ日記。夢はアイドルへの作詞提供。2019年皓星社より朗読詩集「伝説にならないで」刊行。ほかの書籍に「あなたとわたしのドキュメンタリー」(書肆侃侃房)がある。EX大衆、Rooftopでもコラム連載中。