「戦後初の3冠王」は1965年の野村克也 前年は本塁打&打点の2冠も“減俸”が刺激に

2019年のヤクルトOB戦に出場した野村克也さん【写真:荒川祐史】

野村は1962年から64年まで本塁打&打点の2冠王に輝いていた

 終戦の混乱が終わり、高度経済成長期に入った1960年代、野球雑誌ではしばしば「戦後初の3冠王は誰か?」という特集が組まれた。

 MLBでは戦後、レッドソックスのテッド・ウィリアムス(1947年)、ヤンキースのミッキー・マントル(1956年)が3冠王になったが、日本プロ野球では戦前の1938年の巨人、中島治康だけ。中島は春秋2シーズン制の秋季に記録したが、フルシーズンでの3冠王はまだ出ていなかった。

 評論家やファンは、3冠王に一番近いのは、セ・リーグは巨人の長嶋茂雄、パ・リーグは西鉄の中西太だろうと予想した。長嶋は新人の1958年に本塁打王、打点王に打率2位、61年には本塁打王と首位打者、63年には打点王と首位打者。3度も2冠王を手にしていた。

 それ以上に3冠王に肉薄したのが中西太だった。中西は1953年に本塁打王、打点王に打率2位、55年に首位打者、本塁打王、56年にも本塁打王、打点王に打率2位、58年にも本塁打王と首位打者。2冠王は4度を数えた。

 長嶋と中西、両リーグを代表する2人の三塁手が本命視される中、戦後初、そしてフルシーズン初の3冠王に輝いたのは1965年、南海の捕手・野村克也だった。中西太が左手首の腱鞘炎などで出場試合数を減らす中、野村は1962年から3年連続で本塁打、打点の2冠王。パ・リーグ最強打者に成長していた。

 しかし1965年のシーズン前、野村には期するところがあった。

 一つは年俸の問題。前年、野村は3年連続の二冠王に輝きながら、年俸を下げられている。打率が.262(21位)と下落し、監督の鶴岡一人に「本塁打、打点がええのは当たり前や、打率があかん」と言われていた。

 もう一つは通算本塁打。野村はこの時点で274本塁打。プロ野球史上最多本塁打の山内一弘(当時阪神)の293本塁打にあと19本に迫っていた。山内は63年まで大毎で野村のライバルだった。阪神に移籍した64年も31本塁打を打つなど健在だったが、野村は今季中に史上1位に立ちたいという野望を持っていた。

1962&63年首位打者のブルームが近鉄から加入、苦手の内角打ちを学ぶ

 さらに、ジャック・ブルームフィールド(ブルーム)が近鉄から移籍したこと。1962、63年に2年連続首位打者に輝き、リーグ屈指のアベレージヒッターだったブルームの加入は鶴岡監督の判断だった。野村には、打率が低い自分に対する鶴岡監督の無言の圧力のように思えたのだ。

 ブルームはバント安打もうまいうえに安打を広角に打ち分けることができる。穴がない打者だった。これに対してこの時期の野村は「内角攻め」に苦しんでいた。特に山内一弘とのトレードで阪神から東京(この年大毎から改称)オリオンズにやってきた小山正明は抜群のコントロールで野村の内角を徹底的についた。

 野村は投手の癖から配球を読むのが得意だが、セ出身の小山のデータはほとんどない。そのこともあって、野村は小山攻略ができずに苦しんでいた。

 春季キャンプで野村はブルームに「どうしたら内角が打てるのや」と聞いた。ブルームは「腕を折りたためばいいんだ、簡単さ」と答えた。野村はそれから内角打ちの練習に集中した。また野村はこの年からスタンスを狭くし、バットを余らせて持つようにした。内角打ちを意識してのフォーム改造だった。

 この年の開幕戦、4番に座ったのは新加入のブルームだった。野村は5番。これは野村のプライドを痛く傷つけた。

 ブルームの助言が効いたか、野村は次第に打率を上げていく。ブルームも打撃好調だったが、夏場に故障で戦線離脱してしまう。オールスター前の時点で、野村は打率.338と前年とは見違えるような成績を残した。

 通算本塁打で野村の上を行く阪神の山内は7月4日に史上初の300本塁打を記録したが、これを追いかける野村は8月8日に300号。じりじりと山内を追い詰めていく。

 そして9月13日には野村は通算312号を打って、山内を抜いた。ここから1973年に王貞治に抜かれるまで、野村克也は「プロ野球通算最多本塁打」のタイトルを維持し続けるのだ。

 9月13日の時点で野村は打率.341、本塁打38本、101打点でいずれもトップ。セ・リーグでも巨人の王貞治が打率.336、本塁打29本、75打点でトップ。スポーツ紙は「両リーグで三冠王誕生か」と大々的に書き立てた。野村は30歳、王は25歳だった。

タイトルを争ったスペンサー&高木喬が相次いで離脱、初の首位打者を手にして3冠王に

 しかしこの時期からパでは阪急のスペンサーが本塁打を量産し始める。スペンサーは7月に一時は野村に7本差をつけて本塁打でトップに立ったが、故障がちで欠場が増えていた。しかし9月に入って盛り返して10月4日の時点で40本の野村に対して38本と2本差に迫っていた。

 打率でもスペンサーは.311で2位。さらに近鉄の高木喬が9月に入って急速に打率を上げていた。ここへきて、野村の三冠王には暗雲が立ち込めてきた。

 しかし全く予想外の展開で、野村克也に三冠王が転がり込むこととなった。まず10月2日、近鉄の高木は激しい腹痛に見舞われて病院に搬送され、急性盲腸炎と診断され入院することになった。

 そして10月5日の午後3時過ぎ、バイクに乗って西宮市の自宅から球場に向かったスペンサーは、自宅を出てすぐの三差路で16歳の店員が運転する軽四輪と出合い頭に衝突。神戸市内の病院に搬送され、右足骨折で全治2か月と診断され、入院したのだ。2人とも今季絶望だった。

「戦後初の三冠王当確!」。10月5日、報道陣は大阪球場に詰めかけた。

 試合前の野村は「こんなに次々と競争相手が倒れてしまい、何か気持ちが悪いような気がする」と複雑な表情で語った。この日、南海は近鉄に負けたが、試合後にラジオのアナウンサーが野村にマイクを向けた。しかし野村は「人が不幸にあったことを聞いて、私が喜べますか」とインタビューを拒否してロッカールームに引き上げた。

 最終的に野村は打率.320、本塁打42本、110打点で戦後初の三冠王に輝く。セの王貞治はシーズン終盤に首位打者を中日の江藤慎一に奪われ、三冠王はならなかった。

 野村の首位打者は後にも先にもこの1度だけ。わずかなチャンスを生かして三冠王を獲得した。今なら「持ってる」と言われるところだろう。南海はリーグ優勝。野村克也はもちろんMVPにも輝いた。

 捕手の首位打者も史上初。以後、古田敦也、阿部慎之助、そして昨年の森友哉が続くことになる。

 シーズン最終日、野村は報道陣の前で万歳をして三冠王を喜んだ。鶴岡一人監督は報道陣に静かに語った。「おめでとう、ブルームが入ったことが野村をよほど刺激したようだ。ブルームと競り合って前半戦に3割を記録したことがいい結果につながった」。

 すでに押しも押されもせぬパ・リーグ最強打者になっていた野村克也に、鶴岡一人は刺激を与えてさらなる「チャレンジャーの火」を燃やさせたのだ。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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