第7回「ドキュメンタリー映画『愛国者に気をつけろ! 鈴木邦男』、無事終了」

▲2月13日のアフタートーク。左から植垣康博、中村真夕、鈴木、西村修平、足立正生の各氏。

連日満席だったポレポレ東中野

先月書いた僕のドキュメンタリー映画『愛国者に気をつけろ! 鈴木邦男』(ポレポレ東中野)が無事、公開終了した。無事というのには二つの意味がある。

最初のそれは、観客の入りだ。僕を扱ったドキュメンタリーなんて、少しの好き者はいるかもしれないが、2週間なんてとても無理だろうと思っていた。ところが、14日間、すべて満席となった。これは共同プロデューサーの山上徹二郎さんの発案で、毎日、トークゲストを呼んだから、その人たちに会いたいという方が詰めかけた結果だろう。来てくれたメンバーも当代一流の著者、学者、映画監督、社会運動家、コメディアンなどが揃ったし。

映画公開前にすでにソールドアウトになった日が3日間もあった。まず初日の土曜日と2日目の日曜だ。この日のトークゲストは、初日がライターの武田砂鉄さん。2日目が少壮政治学者の白井聡さんだ。もう1回は11日の休日。内田樹先生が来てくれた日だ。その他の日でも、前の日の夜にはソールドアウトになることが多かった。珍しく、チケットぴあに残っている場合でも、当日の昼には売り切れてしまい、ポレポレ東中野に並んだのに手に入らなかったという人が続出した。

そういう方のために朗報を。各地で上映が決まったのだ。今のところ3月7日から13日が名古屋シネマテーク、4月4日から17日がまたポレポレ東中野でやってくれる。今度はアフタートークはないが、ぜひ観に行ってください。同じ日程で横浜のジャック&ベティでも公開される。その他の最新情報は、映画の公式HPがあるらしい。kuniosuzuki.comで引けるとか。この辺は僕はよく知らない領域だが。

君は三島事件を知っているか?

実は白井さんとのトークの中で、「三島事件以降に生まれた人なんて、人じゃあない」なんて暴論を吐いて、失笑を買った。この映画の中村真夕監督は「じゃあ50歳以下の人は全部だめですね」と笑う。白井さんも武田砂鉄さんも、中村監督も、みんな三島事件の時には、この世に影も形もない。

そうか。そういえば、若い方が多いルーフトップの読者のために、三島事件を説明しておかないとだめだなあ。昭和45年、1970年に起きた事件だ。この頃は、日本中で学生運動の最も激しかった時期だ。それに対抗するかのように、作家・三島由紀夫は「楯の会」という組織を作った。学生を中心に100人くらいが集まった。三島に言わせると、世界一小さな軍隊だ。三島由紀夫がポケットマネーを出して、西武デパートで軍服をあつらえた。それも夏用と冬用だ。

隊員になるには陸上自衛隊の体験入隊訓練(1カ月)が課された。三島は楯の会の幹部会員には「俺の本を読んでる奴は取るな」と言っていたそうだ。きっとひ弱な文学青年は忌避したのだろう。

それで昭和45年、三島由紀夫は憲法改正と自衛隊の決起を促すことを目的に、自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れる。4人の楯の会のメンバーが一緒だった。自衛隊東部方面総監・益田兼利氏に面会中、総監を縛り上げ、自衛隊員を中庭に集合させることを要求。それがかなったのを知ると、中庭を見下ろすバルコニーに立って、自衛隊員に激しい檄を飛ばした。

「君たちの存在を否定する憲法をなぜ守る」

「憲法改正をして、国軍となれ」

というようなことを激しく、大声で叫び、

「自分と一緒に立ち上がろう」

と訴えたが、庭を埋めた800人以上の自衛隊員からはヤジや怒号が聞かれるのみだった。

10分ほどで演説を切り上げた三島は、総監室に戻り、割腹自殺。同行した楯の会の森田必勝も切腹して、2人ともこの場で果てた。三島由紀夫は45歳、森田必勝は25歳だった。

以上が三島事件のあらましだ。実はこの時、三島と一緒に自裁した森田必勝は、僕の早稲田の後輩で、彼を右翼の学生運動に誘ったのは、何を隠そう、僕だった。

その森田が、ああいう行動に出て死んだのは、とてもショックだった。僕は当時、学生運動の組織「全国学協」の委員長を1カ月でクビになり、一旦故郷に帰った後、産経新聞の広告局で禄を食んでいた。三島事件のテレビ中継は、産経新聞の食堂で見た。森田の名前が出た時には、本当に驚いた。

あそこで報道されている森田。食堂で飯を食っている僕。みじめだった。

そんなわけで、僕は再び右翼の勉強会を始めることになった。毎月第一水曜日に集まっていたから、一水会と呼んだ。これは冗談ではない。本当のことだ。

1972年には、「三島・森田烈士慰霊祭」を一水会が中心となって実現した。翌年からは「野分祭」という名称になって、今に続いている。

映画では僕を罵倒していた西村修平さんも登場

トークゲストの話をもう少し。

一番賑やかだったのは、13日目の足立正生監督が登壇した日だ。足立さんは元はと言えば脚本家だ。若松孝二監督とコンビを組んで、ピンク映画を量産していた1960年代の頃の若松プロのツートップ。その後、若松監督とともに、重信房子さんを追いかけてパレスチナで映画を撮った(『赤軍─PFLP 世界戦争宣言』)。それが縁となって、病(やまい)膏肓(こうこう)に入って、日本赤軍のスポークスマン的役割を果たすようになり、“長い間、海外出張していた”。このフレーズは、足立さんが自分から飛ばすギャグで、日本赤軍としてパレスチナで活動していた1970年代中頃から今世紀の終わり頃までのことを意味する。

日本に戻ってからは、僕の友達のPANTAさん(頭脳警察)も出た『幽閉者』という映画や、最近では『断食芸人』という映画も撮った。もう80歳になるというのに、豊かな銀髪にサングラスの風貌はカッコいい。

この足立さんの日に、なんと客席に西村修平さんがいたのだ。西村さんと言えば、僕の映画の中で、僕に罵声を浴びせている。日本のイルカ漁を批判的に描いた映画『ザ・コーヴ』が横浜で上映された時、右翼が映画館前に集まって街宣活動をした。その時、映画館を守ろうと支配人や市民たちが映画館を背にして彼らと対峙した。僕もこっちの中にいた。そして、横断幕を掲げ、マイクでがなり立てる彼らに向かって、僕はつかつかと歩いていって、「君らだってネトウヨと違って、ちゃんと顔出して来てるんだから、それは勇気があると思う。だから俺と一対一で話そう、このやり方は単なる弱い者いじめだ」と申し入れた。

僕に話しかけられた若い人は「はい、はい」と素直に返事をしていたのだが、その時、横にいてマイクで演説をしていたリーダーが「鈴木さん、あんたとは後で別にやるから」と怒鳴った。それでも僕が引かないとみるや、「邪魔するな! 引っ込んでろ!」「朝日新聞の太鼓持ちは帰れ!」と罵詈雑言を続けた。この男こそ、西村修平氏。「主権回復を目指す会」のリーダーだ。

その西村氏が、なんと観に来ていたのだ。早速、登壇してもらった。さらにロフトプラスワンの席亭・平野悠さんもいたし、もう一人、連合赤軍の植垣康博さんもいたので、2人とも上がってもらった。左右両極が揃って、ポレポレの舞台はまるでロフトプラスワンと化した。ここから話は面白くなるのだが、もう紙幅が尽きた。

二つ目の「無事」の話もまだ書いてない。来月号に乞うご期待。

構成:椎野礼仁(書籍編集者)

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