笑顔で「ワシはまだ認めてないからな」―野村ヤクルトの“2番手捕手”が語る名将の記憶

2019年のヤクルトOB戦に出場した野村克也さん【写真:荒川祐史】

野村監督の元でプロ入りから8年間プレー、野口寿浩氏は「納得して怒られていました」

 11日に虚血性心不全で死去した野村克也さんが残した功績の大きさは計り知れない。数々の名言は今も野球界に広く浸透しており、すでに指導者となって次世代の選手たちにその考えを伝えている“教え子”も多い。

 野球解説者の野口寿浩氏はヤクルト、日本ハム、阪神、横浜の4球団で捕手としてプレーし、2018年までヤクルトで2年間、バッテリコーチを務めた。プロ入りから8年間は野村さんの元でプレー。高卒2年目で1軍デビューを果たすと、古田敦也氏に次ぐ2番手捕手としての起用が多かったものの、“野村イズム”を吸収して名将から重宝された。黄金期のヤクルトを支えた一人だ。

 野口氏が習志野高からヤクルトに入団したのは1990年。ちょうど、野村さんが監督に就任した年だ。当時、野村さんはまだ54歳だった。

「私は、プロに入る前にはキャッチャーのことどころか、野球のことも『しっかり打て』『しっかり捕れ』『しっかり走れ』『しっかり止めろ』くらいしか言われたことがなかった。その状態でプロに入って、一番最初に聞いたのが野村監督の話でした。とんでもないことになりましたよ(笑)。何も分かっていない状態から1つ1つ教えてくれた方です。

 当時はすごく怖かったですよ。まだ50代でしたから。そりゃ怖いですよ。絶対何かに怒ってましたから(笑)。でも、私たちのことを思って怒っていたわけですから。できていないから怒る。私たちも納得して怒られていました」

 野村さんが残した名言の中に「無視・称賛・非難」という言葉がある。三流は無視し、二流は称賛し、一流は非難するという指導方針を表現したものだ。実際に指導を受けた野口氏は、褒められた記憶は「ほとんどない」と明かす。

「よく怒られました。思い出はいっぱいありますよ。古田さんが骨折して私が試合に出ていたときのことです。神宮球場での試合の前に室内練習場で練習をしていて、若手の選手は試合に出ようが出まいが先の方に打撃練習をするので、私は1番目か2番目かにバッティングを終えました。これからキャッチボールをやろうと思ってこぶし球場の方に出ていったら……野村監督に『ちょっと来い』と呼び止められて、そこから40分間、ずっとお説教。直立不動で聞いているしかありませんでした。

 内容としては『前の試合で何で打たれた』とか、そういう話でした。元楽天の嶋(基宏、現ヤクルト)が、野村さんが亡くなった後にコメントを出していて、『お前の出すサインに俺のクビと選手の生活がかかっているんだ。それを肝に銘じてやれ』と言われたと話していましたが、私も嶋の20年以上前に同じことを言われていました(笑)」

「ワシはまだ認めてないからな。ワシの中ではまだまだお前は2軍の選手や」

 逆に「ほとんどない」という褒められた記憶として「サヨナラヒットを打ったときに背中をパーンと叩かれて、はっと振り返ったら野村さんがいて握手してくれて『よくやった』と。それくらいしか覚えてません」と笑う。ただ、野村さんに怒られることこそが、モチベーションの1つになっていた野口氏は言う。

「今回、野村監督が亡くなったことで“語録”があらためてたくさん出てきていますが、直接聞いたことがないものはありませんでした。これを(直接)言われたな、というのもありますし、ミーティングで出てきたなというのもありますし。『これ聞いたことないな』というのはありませんでした。

『無視・称賛・非難』でいうと、私も『称賛』の段階のときに褒められたというか、マスコミを通じて色々と野村監督が言ってくださったことはありました。でも、すぐ『非難』になりました。そこで『非難』になって怒られ始めたということは、認められた証拠なのかなと。私はそう解釈してモチベーションに変えてやっていましたから、ある程度は認めていただいていたのかなと思っていますけどね。一方で、話題にも登らない選手もいました。褒めてくれるのは若い選手ばかり。『無視・称賛・非難』の3段階を本当に実践されたいたのだと思いますね」

 野口氏はその後、日本ハムにトレードで移籍し、レギュラーとして活躍。ただ、野村さんとの“つながり”はチームを離れた後もあった。

「野村監督が指揮していたチームと対戦したときには毎日必ず挨拶に行っていましたから。3連戦があったら3日間行っていました。挨拶に行くと必ず毒を吐かれましたけどね。逆に『よう頑張っとるな』とか言われたら気持ち悪いというか、怒られなれちゃったという感じですね(笑)」

 忘れられないのは移籍1年目の1998年。レギュラーの座を掴み、監督推薦でオールスターに出場した野口氏は、前年の優勝監督としてセ・リーグを率いていた野村さんに試合前に挨拶に行った。打撃ケージの後ろで東尾修氏(当時西武監督)と話していた野村さんは“毒”と笑顔で迎えてくれたという。

「野村監督から『おお、お前こんなところで何しとんや。ワシはまだ認めてないからな。ワシの中ではまだまだお前は2軍の選手や』とニコッとしながら言われて。隣にいた東尾さんは『何てことしてくれたんですか。何でこんなのパ・リーグに送り込んだんですか』と野村さんに話していたんです。嬉しかったですね」

「『考えることが大事なんだ』と言って頂いた」

 野口氏にとって、野村さんからの教えはプロ野球界を行きていく上での“基本”となった。一人の人間としても“糧”になったという。その本当の凄さはどこにあったのか。

「野球のことをものすごく掘り下げている方なので、言われてみたら当たり前だということなのですが、選手はそれを特別に考えていることって実はあまりなかったりするんです。そういう小さいことでもすごく大事にして、いろいろ考えて、選手たちに伝えてくれた。それをやられたのは、野村監督だけでした。文字にしたり、言葉にして、いろんなことを順序立てて説明して『考えることが大事なんだ』と言って頂いた」

 野村さんに言われて、ハッとすることの連続だった。

「もうそんなことだらけです。野球のことはもちろんそうですし、人生論みたいなことでも、『そんなこと考えたことないよ』ということもいっぱい出てきたので。言われてみればそうだけど、そんなこと1度も考えたことなかったな、と。野村監督がよく仰っていたのは『野球人である前に一社会人であれ』という言葉で、世の中に出て困ることもあってはいけないし、人としてしっかりしていないと野球での成功はない、と」

 野村さんの考えは書籍としても多く残されているが、野口氏にとってはヤクルト時代に受けた座学が財産となっている。春季キャンプから行われていた野村さんの“授業”をすべてノートに記し、さらに驚くべき方法で体に染み込ませていた。

「現役のときは、毎年オフになるともう1回、ノートを書き直していたんです。1年間かけて野村さんのミーティングがあって、大体はキャンプで終わるのですが、それをシーズン中は見返しながらプレーして、シーズンオフに入って秋季キャンプも終わって自主トレ期間になったら、夜がすごく暇になるので、その時間を利用してもう1回(違うノートに)書き写していました。春季キャンプとシーズンの中で、野村さんの言動に変化があったかどうかも確認して、変化があった場合はそこに書き加えていました。球団が変わってからも、そういうことを積み重ねてずっとやっていました。ヤクルト時代はほとんど試合に出られなかったので、レギュラーになって気づいたこともそれに書き加えたりしましたね。でも、(移籍後に)書き加えることは実はあんまりなかったんです。それだけ野村さんはすごい方だったんですね」

 多くの野球人の中に今も生き続ける“野村イズム”。野口氏にとっても、まさに人生を変える出会いだった。(Full-Count編集部)

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