南極にはまった「おっちゃん」たち  5回目参加も、やめられない理由とは

  日本の南極観測隊に参加するのは観測業務を担う研究者や技術者だけではない。拠点の昭和基地で新しい建物を建てたり、古い建物を壊したりする、設備維持も重要な仕事だ。そのための建築担当の隊員もいる。中には南極での仕事に取りつかれて何度も参加する隊員も。

 今回紹介するのはいずれも建築関係の自営業を営む鯉田淳(こいだ・じゅん)さん(52)=兵庫県姫路市=と梅田利郎(うめだ・としろう)さん(50)=大分県津久見市。第61次隊隊員で、それぞれ5回目と3回目の参加になる。「鯉さん」「梅ちゃん」と親しまれるどこにでもいそうな「おっちゃん」だ。2人が南極にはまった理由は―。(気象予報士、共同通信=川村敦)

基地設備の建設作業に携わる鯉田淳さん=1月、昭和基地(共同)

 ▽「気持ちいい」観測隊の仕事

 「日本に戻って1、2年たつと、また行きたいと思ってしまう。どうしても行きたいのか、逃げ道なのかは分からない。観測隊の仕事は気持ちいい」。

 第61次隊の建築担当、鯉田さんはこう話す。今回で5回目の参加となったベテランだ。

 最初の参加は約10年前、第51次隊で南極の夏の期間に活動する「夏隊」だった。その後に3回、約1年の滞在となる越冬も経験。今回は再び夏隊として参加した。

 南極にはまったきっかけは、姫路市の出身小学校で聞いた観測隊経験者の講演。そこでは、ロシアのボストーク基地で記録された南極の最低気温が氷点下約89度だということが紹介されていた。

 「それを聞いて、(その寒さを)どうしても見てみたい。それが見られるかどうか分からんけど、南極に行くしかない」と思ったそうだ。ついでながら、昭和基地で観測された最低気温は氷点下45・3度だ。

 日本での仕事は建築関係の自営業。講演した経験者にその場で聞いてみると、ちょうど建築担当隊員の公募が出ていることを教えてもらった。2週間で書類を整えて提出した。

 面接に行く段階で初めて家族に告げたほどで「あまり後先は考えなかった」と苦笑する。家族は「何を言うとんかという反応だった。合格してもばたばたしたまま、けむに巻かれたような感じだった」という。

 観測隊の魅力は何ですか。「あまり人が見たことのない風景が見られる。いろんな人が来ていて、みんなで同じ方向を向いて仕事をするのが気持ちいい。しんどさもあるが、楽しさ、達成感も混ぜ合わさって『気持ちいい』になる」。各分野の専門家や研究者など、普段の仕事では出会うことのない隊員に会えるのも楽しみだ。「たとえば新聞記者もそう」

昭和基地で作業の合間に休憩する建築担当の鯉田淳さん=1月、南極(共同)

 ▽気持ち抑えられず…6回目は?

 約1年間、仕事も生活も毎日一緒になる約30人の越冬隊員は「疑似の家族」だと感じている。「友達でも本当の家族でもないが、30人が毎日、仕事も生活も顔を合わせてやると、家族のような近さが出てくる。家族ではないけど、限りなく家族に近い」と説明する。

 逆にしんどいのは「追い詰められても逃げ道がない。自分でどんだけ気分転換できるか」「経験者には目配り、気配りが求められるが、出過ぎてもよくない」。

 2回目の参加となる第52次隊で越冬を始めた直後の2011年3月には、東日本大震災が起きた。隊員には被災地出身者もいた。何か役に立ちたいと、3回目の南極から帰国後の15~17年に、岩手県山田町や宮城県石巻市で復興支援の仕事をしたこともある。それでも「しばらくいるつもりだったが、南極に行きたいという気持ちになってしまって…」。17~19年には4回目の南極を経験していた。

 今回の第61次夏隊は昭和基地での活動を終え、観測船「しらせ」で帰国の途に就いた。「6回目は?」との質問に鯉田さんは「仕事の〝終活〟を考えている。50を越え、新しい技術を習得して、という年ではなくなってきた。南極にも興味はあるが、5回も来ていてそろそろ一区切り」と答えた。

 あれっ、もう行かないんですか? 「海外でのボランティアとか、新しいことに挑戦するのもありかな」。鯉田さんの好奇心は、まだまだ止まらないようだ。

南極観測隊の隊員仲間と配管の作業をする梅田利郎さん=昭和基地(共同)

 ▽後世に残る建築物に関わる幸せ

 一方の梅ちゃんこと梅田さんは3回目の参加。第61次隊では重機オペレーターを務めた。本業はとび工事を主とし、鉄骨や足場の組み立てを担う自営業だ。「南極に自分が建てたものが残ることは誇り」なのだという。

 もともとは海運会社に就職し、船に乗っていた。合わないと感じて、21歳ぐらいのときに転じたのが建築業。「物をつくるのは性に合っていた。自分の考えひとつで早くできたり、遅くできたり。きれいに早くできるかが腕の見せどころ」と振り返る。これまで、火力発電所の煙突や、製鉄所の建物など、さまざまな工事に関わってきた。

 初めて南極に行ったのは12~13年の第54次隊。仲の良い友人が海上自衛隊員で「観測隊にも建築の人がいる」と教えてもらったのがきっかけだ。観測隊を南極に運ぶしらせは海自が運航している。梅田さんは幼いころから母親に、明治時代に日本人で初めて南極探検をした軍人、白瀬矗などの話を聞かされていたためか「極地で働くことへの興味はずっとあった」。

 観測隊の実務を仕切る国立極地研究所(東京都立川市)のウェブサイトを見たところ、ちょうど建設隊員の公募が出ていたので迷わず応募した。「書類、面接ととんとん拍子に進んだ。あまりに簡単に進んで拍子抜け」という。合格後、初めて妻に打ち明けると「は? 南極?」とぽかんとしていたが、反対はなかった。

 第54次隊では、上空の電離層を観測するアンテナなどの建設に携わった。「はまった。作業をしているかたわらに南極大陸が見える。こんなにきれいな自然を見ながら仕事をさせてもらって、建てたものが後世に残るのは最高に幸せだ」。その後も極地研にアピールを続け、参加の機会を得た。

配管の作業をする梅田利郎さん=昭和基地(共同)

 ▽情熱先走る〝南極病〟

 仕事をする上で心がけているのは、妥協しないこと。たとえば安全面では、高い所での作業はわずかな時間でも「安全帯」と呼ばれる命綱を忘れない。「まあいっか、で終わらせない」

 第61次隊では気象庁から派遣された隊員が上空の気温などを測る気球を放つ「放球デッキ」の建て替え工事を行った。「南極病というか。建築チームだけでなく、みんな情熱が先走って、休むことを忘れがち。常に全力でやろうとする。今回、経験者も頑張りすぎたところがあった」と振り返る。

 今後については「経験すると分かることもあり、前回できなかったことをやってやろうという気持ちが出てくる。4回でも5回でも行きたい」と笑顔を見せた。

 ▽取材を終えて

 鯉田さんの言った「普段会わない人に会えるのが観測隊の魅力」という言葉。私もまったく同感だ。観測隊は、研究者、行政機関の職員、庶務を担う大学職員、民間企業からの派遣、調理、医師など多種多様な職種の人がおり、それぞれ所属も違う。どの人もそれぞれの職能を持っており、新聞記者しかやったことのない自分にはできないことをやすやすとやっている。

 ある日、放球デッキの作業を手伝ったときは鯉田さんや梅田さんらの指示に従って、生コンクリートを流し込んだ。普段何げなく見ている建設工事とはこうやっているのかと驚きの連続で、素人の私には2人がとても頼もしく見えた。

 気象や災害の取材で研究者に会うことは多いが、「設営部門」と呼ばれる鯉田さんや梅田さんのような仕事の人に接する機会はあまりない。それだけに今回のインタビューは非常に興味深かった。

放球デッキ建設の様子=1月、昭和基地(共同)

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