プロ野球ヤクルトで黄金時代を築き、阪神、楽天などでも監督を務めた野村克 也さんが2月11日、84歳で亡くなった。野村さんは野球のことになると話は尽きず、試合前から球場のベンチで語り続けることが多かった。私はヤクルトが14年ぶりにリーグ優勝した1992年、日本一に輝いた93年、そして94年と3年間、担当記者としてさまざまな逸話を聞かせてもらった。その中で野村さん自身の野球人生を変えた言葉を聞いたことがある。それは、南海(現ソフトバ ンク)の選手時代に監督からかけられたさりげないひと言だった。(共同通信=中井聡)
南海にテスト生で入団してプロ3年目の57年。ようやく、捕手として1軍のオープン戦に出させてもらえるようになったとはいえ、まだ迷いと不安ばかりが募っていた時期。練習中に球場で鶴岡一人監督(故人)と偶然すれ違い、なにげなく「野村、おまえ、ようなったな」と言われた。これが大打者、名捕手への道を開く大きなきっかけとなったという。
30年以上も前のことを最近のことのように話し「あのひと言がどんなに自信になったか。あれがなかったら、今の自分はない。さりげない監督のひと言が自信を与え、選手を育てるものなんや」と懐かしんでいた。
実際、この年は初めて132試合にフル出場。30本塁打をマークして本塁打王に。一流選手への足場を築き、45歳まで捕手一筋で通算657本塁打を放つ名選手までになった。
南海の選手兼任監督時代、プライドの高い先発投手の江夏豊に対し「球界に革命を起こそうや」とリリーフ転向を説得し、成功したのは語り草になっている。ここまで劇的ではないにしても、3度の日本一に輝いたヤクルト時代にも、選手にかける言葉は大きな「戦力」となっていた。
190センチ近い山田勉という大型右腕がいたが、気の弱いところもあって92年までプロ7年間で未勝利。その投球練習を見た野村監督が、当時巨人の先発の柱として活躍していた桑田真澄を引き合いに「おまえが覆面をかぶって、球だけ見たら、桑田と間違えるぞ」と声を掛けるのを目撃した。
その言葉に乗せられたように、山田は93、94年にともに10勝(5敗)2セーブを記録。95年にも優勝に貢献した。技術的な指導もなく、こんなにも選手が変わることに驚いた記憶がある。
「言葉を持たない指導者は何でもない」が持論の野村さんは、鶴岡監督に掛けられたさりげない言葉も、その後の監督生活で「使わせてもらった」と振り返り、 「人を育てることは自信を育てること」と多くのメディアでも語っている。
南海の選手兼任監督時代には他球団で活躍できなくなったベテラン選手を復活させ、「野村再生工場」と呼ばれた。ざっと挙げても、南海で江本孟紀、山内新 一、ヤクルトで小早川毅彦、楽天で山崎武司ら多くの名前が浮かぶ。
それで思い出すのが94年の秋季キャンプ。ある日、宮崎・西都に当時オリックスで活躍していたイチローの打撃投手で、「イチローの恋人」といわれた若手がヤクルトの入団テストを受けにやってきた。すぐにブルペンで投げさせてみたものの、コーチ陣は首を横に振り、「プロでは通用しない」と苦笑するばかり。
ただ一人、野村監督だけは納得しなかった。投手としては駄目でも「キャッチャーからの返球を受けるグラブさばきが柔らかく、センスを感じる。野手としてどうや」とすぐに内野グラウンドに移動。コーチにノックを打たせ、捕球と送球を見守った。
さらに内野手は打力も求められるため、打撃練習までさせてチェックした。コーチの冷たい視線の中、ここまでしてやっとあきらめた野村監督は自分のことのように悔しがり、黙ってため息をついたのを覚えている。
「再生工場」の根底にあったのは、らく印を押された選手を何とかしてあげたいという「愛情」だったように思う。実績もない無名投手の可能性を必死に探し出そうとしたあの姿に、その熱いハートの一端を見たような気がした。
このキャンプではもう一つ思い出すことがある。他の担当記者と2人でベンチにいると、バットを持って近づいてきた。三塁側にバットを向けてバントの構えをした後「それをピッチャーが投げる瞬間にこうやるんだ」とバットを一塁側に 向きを変える。「こうすると、バッターは一塁側に一歩踏み出しながらバントできる上に、ピッチャーは三塁側に気持ちがあるから、捕球に行くのが一歩遅れる。 バットの向きを変えるだけでこんなに違うんや」。そしてわれわれの目を見ながら「野球って面白いな」とにやにやとして言った。その表情は忘れられない。
ベテラン審判員から、面白い話を聞いたこともある。1軍に生き残るのに必死の若い選手が微妙なコースをストライクと取られて三振すると、すぐには抗議はしてこないという。
何イニングか試合が進み、守備交代を告げる時などに独り言のように「あれをストライクに取られてかわいそうやなあ。せっかく頑張ってきたのに…」とぶつぶつとつぶやいてベンチに帰っていくという。審判員の情に訴え、心理を乱すような抗議の仕方が何とも野村さんらしい。
ヤクルト時代の野村さんを語るには、ベンチで常に目の前に座っていた古田敦也との「師弟物語」も欠かせない。古田は入団2年目の91年に首位打者のタイトルを獲得。だが、打つことでどんなに派手な活躍をしても一人前とは認めなかった。「バッティングより捕手のリード」と地味なインサイドワークの重要性を徹底的にたたき込んだ。
92年のオープン戦。球界を代表する捕手に成長しつつあった古田が、突然先発メンバーから外れ、全くマスクをかぶらせてもらえなくなった。試合でファウルボールを目で追うだけで諦め、取りに行こうとしなかったという。
オープン戦ではマウンドに1軍への生き残りを懸けた当落線上の投手が上がることが少なくない。すでに捕手のポジションを約束されている古田に対し「おまえはオープン戦でミスしても試合に出られるが、たった1球で名前が消えていくピッチャーもいるんや。それを考えたことがあるか」と激怒したのだ。結局、古田が「勘違いをしてました」と謝罪。先発に復帰したが、野村さんの厳しさを物語るエピソードだった。
野村さんが若いチームを育て上げ、開花し始めた頃に記者として接することができたのは本当に幸運だったと今、しみじみと思っている。
2001年限りで阪神の監督の座を追われ、失意の中、社会人野球のシダックスの監督として静岡・修善寺でキャンプを行っていた時、激励に訪ねたこともあった。腐ってもおかしくない状況の中、ネット裏で選手のプレーに目を光らせ、克明にメモを取る姿があった。宿舎でもミーティングを毎夜繰り返し、野球への情熱は少しも変わっていなかった。
その夜、他の担当記者と私の2人を夕食に誘ってくれた。酒を飲まない人なのに白ワインを2杯注文。こちらが酒を遠慮しないようにするための「演技」だったことを、後から知った。
共同通信主催で講演をしてもらった帰りに、いきつけのそば屋でごちそうになったこともあった。テーブルに一緒に座った監督付マネジャーが「監督、いいのを新橋で見つけました」とこそこそ言うのを聞き、野村さんが真剣に財布から1万円札を何枚か渡すのを目の前で見た。増毛剤を頼んでいることが短い会話から分かった。球場でファンに帽子を取ってあいさつする時、薄くなりつつあった頭のてっぺんのことを気にしていたのだと知った。それもいい思い出だ。
野村さんは3歳で父親を戦争で亡くした。同じように母子家庭で育った社の先輩記者からは、南海の担当時代に突然お土産を渡された昔話を聞いた。「なぜか自分が母子家庭だと知ってて、お母さんに持っていってやれ、飲み屋に忘れておいてくるな、と言われた」という。
いくつになっても、講演で母親の話になるといつも涙を浮かべ「俺の弱点は母親。マザコンや」と話していたノムさん。天国で、その母親と再会できただろうか。
合掌。