新型コロナウイルスの脅威に押しつぶされないために  夜間中学の元教師から届いたメール

By 佐々木央

新型コロナウイルスの影響で休校となり、登校時間になってもひっそりとする大阪市内の小学校の教室

 なにやら街が沈鬱だ。これは2011年春、原発が爆発したときと同じ空気ではないか。

 2月28日の夕刻、食事の材料を買いに大型スーパーに出かけた。レジに並ぶ人の多くがカートからはみ出すように、トイレットペーパーの大きなパッケージを乗せている。

 そういえば、もう少しで切れそうだった。食材売り場を先に回った後、トレペ売り場に向かうと、ない。陳列板がむなしく露出している。

 「トイレットペーパーがなくなる」という情報が広がっているという話は、ネットで目にしていた。しかし、それには「デマ」という結論が付いていたから楽観していた。甘かった。近くの小さいスーパーにもない。あわててドラッグストアやコンビニへと“転戦”したが、後の祭りだった。

 集会やシンポジウム、小さな上映会が、次々に中止や延期になっている。首相による一斉休校要請の後は、錦の御旗を得たように、スケジュール表から消えていく。

 教育や子どもの問題を中心に取材してきた私にとって、こうした集まりは大切な場だった。実践家や研究者の話を聞いて知らなかったことを知り、思いもよらなかった見方や現実に即した考え方に触れる。そこを起点に、さらに学校や支援の現場に出向いたり、状況を俯瞰的に調べたりして、記事を書いてきた。その起点が失われてしまった。

トイレットペーパーが品切れした棚=2月28日午後、熊本市東区

 そんなとき、そうした集会の一つで3年前に出会った澤井留里さんからメールが届いた。澤井さんは夜間中学の先生だった人。出会ったのは、夜間中学の卒業生や在校生たちの弁論大会だった。彼女のメールはこんなふうに始まっていた。

―今の社会の様子を見て、あの東日本大震災と原発事故の時を思い出してしまうのです。まず、正しい情報が知らされていません。人々は何がどうなっているかわからないところに置かれています。それから、真っ先に市民の活動が停止に向かっています―

澤井さんの危機感は私のそれと重なっていた。彼女はそれへの向き合い方にも触れているのだが、同じ危機感を持って発信されたと思われる言葉を先に紹介したい。

 イタリア北部ミラノにあるアレッサンドロ・ヴォルタ高校のドメニコ・スキラーチェ校長が書いた生徒へのメッセージは、いくつかのメディアで取り上げられた。ここではまず、彼の実務家としての誠実さ、矜持を示す言葉を引用する。

―私は専門家ではないので、この強制的な休校という当局の判断を評価することはできません。ですからこの判断を尊重し、その指示を子細に観察しようと思います―

 専門家の判断を尊重はするが、その指示が現場にもたらしたものについては、つぶさに見ていますよと宣言する。これは為政者に対する警告ともとれる厳しい言葉だ。

 そして、生徒たちに向けて。

―冷静さを保ち、集団のパニックに巻き込まれないこと。そして予防策を講じつつ、いつもの生活を続けて下さい。せっかくの休みですから、散歩したり、良質な本を読んでください。体調に問題がないなら、家に閉じこもる理由はありません―

 子どもにとって基本的な学びの場である学校が失われたらどうするか。散歩は運動になり、思索にも適している。そして、読書こそ孤独な学びにふさわしい。校長は何より読書を勧める。そのうちの1冊は、イタリアの古典的な本だ。そこに17世紀に流行したペストの描写があり、ウイルスにおびえる“いま”を考えさせるからだ。

―この本の中には、外国人を危険だと思い込んだり、当局の間の激しい衝突や最初の感染源は誰か、といういわゆる「ゼロ患者」の捜索、専門家の軽視、感染者狩り、根拠のない噂話やばかげた治療、必需品を買いあさり、医療危機を招く様子が描かれています―

 これは現代と同じではないか。こうした危機はなぜ起きるのか。校長はこう続ける。

―それは社会生活や人間関係の荒廃、市民生活における蛮行です。見えない敵に脅かされた時、人はその敵があちこちに潜んでいるかのように感じてしまい、自分と同じような人々も脅威だと、潜在的な敵だと思い込んでしまう、それこそが危険なのです―

 ウイルスよりも大きな災厄のもとは、人間そのものの中に潜んでいた。しかし最後の呼びかけは、その人間性に対する信頼の表明だ。

―私たちには進歩した現代医学があり、それはさらなる進歩を続けており、信頼性もある。合理的な思考で私たちが持つ貴重な財産である人間性と社会とを守っていきましょう。それができなければ、本当に “ペスト”が勝利してしまうかもしれません―

 だが、校長は人間の“勝利”を予言し、希望を与える。

―では近いうちに、学校でみなさんを待っています―

 茨城県つくば市の「コロナウィルスの学校のたいおうについて」と題する文章は、伝え方も、その内容である対応策も、これまでにないものだった。

―日本のあべしゅしょうがすべての学校をおやすみにしてくださいとおねがいをしました。つくばしもどうするかをきめました―(改行や分かち書きは適宜変更、以下同じ)

 平仮名の多い表記は、外国語メインの親子や低年齢の子どもへの配慮だろう。それだけでも画期的だと思う。決定内容だけでなく、経過を記していることも適切だ。

―3月5日までは、いつもとおなじ じゅぎょうがあります。学校にいくことがふあんな人は、学校にいかなくてもおやすみにはなりません。3月6日から3月24日までは、じゅぎょうはありませんが、学校にいくことができます。学校には先生がいます。じしゅがくしゅうのじかんになります―

 学校は閉じない。先生もいる。

 ひとり親家庭やネグレクト状態の子、貧困家庭の子どもは、給食が生存の最低線を保障している場合がある。その子たちへの配慮も忘れない。

―3月5日まで給食はあります。3月6日よりあとは、3月2日に給食がひつようか きぼうをとるので、給食がひつような人は学校がよういします―

 最後に「市はみんなの味方だ」と勇気づける。

―ひつようなことはまたおしらせします。つくばしはみなさんがあんしんして すごせるようにがんばっています―

 日本にもこういう自治体があると知って、私の方が勇気づけられた。ぜひ、ほかの自治体も参考にして、弱い立場にある人と子どもたちを救ってほしい。

 さて、このたびの困難に澤井留里さんはどう向き合うのか。

 ①何がどうなっているのか、正しい情報を学ぶ。すでに怪しい情報がまことしやかに流されている。

 ②十分注意をしながら草の根の市民活動は原則として実施する

 ③普段通りの生活をできるだけ続け、いろいろな考え方、やり方を互いに交流する。

 3つのどれにも「学ぶこと」がある。でもそれにとどまらない。

―私は音楽の教員だったので、こんな時、芸術がどんなに大切か、それも声を大にして言いたい。あの原発事故の時期でした。私がショックで半分正気を失い、ふぬけのようだった時、同僚の教師が音楽室で笛を吹いてくれました。その音色を聴いて、われにかえった経験が忘れられません。言葉ではとても説明できませんが、あえていうなら、「大丈夫だよ、生きていることはうれしいことなんだ」とでも言われたような―

 芸術は人を救い、人を育てる。すさんだ心を慰め、励ますだろう。 (47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)

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