
私たちは福州をめぐり、琉球王国と福州の交易の奥深さに圧倒された。
よく知られている沖縄文化のルーツがほとんど福州ではないかと思えたほどだ。
そして、最後に向かったのは首里城。
当時の冊封使(さくほうし)と同じルートでたどってみることにした。
琉球に上陸した彼らの心象風景に分け入るために。
第一の門「中山門」があった場所からスタート。
守礼門よりも100年以上前に作られた中山門。
名前の由来は、冊封使が献じた「中山」の文字を門の額にかけたこと。
中国牌楼式の建築で、漆の赤が美しかったという。
明治時代に消失したが、現存していたらさぞかし雅であっただろう。
琉球王国時代の中山門を抜けて、冊封使が城に登ってゆく姿を妄想する私。
今は何もない中山門から、私もしゃなりしゃなりと冊封使の足取りで首里城を目指す。
それはまるで、まだ見ぬ国の知らぬ言葉で語り継がれてゆく物語を開く気分だ。
真正面に「龍潭池」が見えてくる。
冊封使を接待するために作られた池だ。
「ここって、閩江の景色に似てない? 万寿橋のあたりの」とRが切り出す。
龍潭池を囲む、新緑の色。東風 そよぐ水面の揺らぎ。
確かに、数日前に見た福州の景色に似ている。

「ああ、この橋。何かに似ていません?」と興奮ぎみのR。
池にかかる石造アーチの「天女橋」で何かを発見したらしい。
私の瞳は、猫の目のように光る。
天女橋の橋脚にある〝三角の帆先〟らしきもの。
それは、船の帆先であり、万寿橋や閩江の大橋で見たものとそっくりだった。
「これ、まさにエウレカ!(分かったぞ!)」とRが叫ぶ。
おそらく、船で訪れた冊封使への気遣いだったのだろう。
三角の帆先のメッセージは、閩人三十六姓(びんじんさんじゅうろくせい)の目線で福州を旅した私たちにはしっかり届いた。

車で首里城の東側に回り、崎山町の高台にある水場へ向かう。
二つの大きな酒造所(瑞泉、崎山)があることからも、首里が高台にもかかわらず水の豊富な地域であることが分かる。
「城は何度も焼けた。しかし、石垣と城内の御嶽(うたき)と周囲の水場は生き残ってきた。今回の焼失だってそう。中の御嶽と幾つもの拝所(うがんじゅ)は無事なのだ」。Rが語り始める。
「王が不在になった首里城の役割は観光と信仰。信仰の対象、御嶽としての機能が失われていないのなら30年前に戻っただけ。観光客は正殿の無い首里城に寂しさを感じるだろうけれど、復元前の姿を見てきた人間にとっては元の姿を見ている懐かしさもあると思うんだよね」
朗々と語るRの横顔に閩人三十六姓を垣間見る。
守礼門に向かう。
焼失した首里城をひと目見ようという観光客で中は結構賑わっていた。
「あ、ここ!」。なぜか石門の前で父と母が立ち止まり見入っていた10年ほど前の姿が脳裏をよぎる。園比屋武御嶽石門だった。
この御嶽は沖縄のシャーマンの最高位者である聞得大君(きこえおおきみ)が就任すると報告の拝みが行われる場所。神の門だから人が通ることはない。
「王様が外出する際もこの場所でお祈りしたんだよ。首里城関係の行事はだいたいここがスタート地点だよね」。鳥ちゃんの細かい解説に皆うなる。
首里城の焼失直後、この御嶽の裏側に侵入禁止のロープを越えて拝みに行く人たちがいたらしい。何を思って祈りを捧げたのだろうか。
えっちらおっちら登ってゆく間に、ちょっと坂がキツイなと感じる。
「ここって本当にうちのお母さん登った?」と10年前、一緒に首里城を訪れた鳥ちゃんに聞くと「依子さんのお母様もお父様もお元気に登ってましたよ〜」と返ってきた。そうか、みんなまだ元気だった時に来られてよかった。

瑞泉門の横では、龍樋から水がほとばしっている。
500年以上も前に中国からもたらされた龍の彫刻。
周りにはこの水をたたえる歴代の冊封使たちの賛辞が石碑となっている。
「え? もしや、ここの水って……」。のら猫アンテナがピピピと反応。
「さっきの龍潭池につながっているのではないかしら?」
正解だった。
龍樋からの水は、さっきの天女橋を抜けて龍潭池に注いでいるという。この水は、冊封使が宿泊していた宿舎にも運ばれていたらしい。
そして、漏刻門。
いよいよ北殿が見えてくる。
写真を撮る者、祈りを捧げる者、観光地らしいその姿。
門をくぐり、石垣の隙間から正殿が見える。
二本の龍柱と石段以外は見事に炭と化していた。

ここまで真っ黒になっていると逆に清々しささえ感じる。
むしろ、崩れかけた瓦、骨組みがむき出しになった南殿、北殿の方が痛々しく感じた。
崩れかけた南殿の瓦を見て、王国時代にも三度焼けたが再建をし、冊封使たちを迎えてきたことを思う。
高台にあり、火がつくと風で燃えやすい。
そんなデメリットを抱えながら居城を移さなかったのには、豊かな水の存在が大きかったのではないか。
冊封使たちを遊ばせる龍潭池。冊封使をもてなした名水。神事の水取り。
我々は 燃えて崩れた城を後に、水と城の関係性や中国との関係について歩きながら考えていた。
やがて、西のアザナ(展望台)に出た。
那覇の街並が一望できる気持ちの良い高台だ。
「ここからは慶良間島が見えるよ」と鳥ちゃん。
海の向こうに慶良間、渡嘉敷が見える。
あの島々を伝って那覇と福州を往来した閩人三十六姓、そして当時の琉球人や冊封使たち。
当時、進貢船が帰ってくると、久米島から順々に那覇の小禄方面へと狼煙を上げて船の帰りを首里王府に伝えたという。

私たちも福州に乗り込んだ。
閩江、三坊七巷で遊び、琉球館、琉球人墓地に手を合わせた。
そして今、首里城から海を眺めている。
こんな長旅を古の琉球人たちは船でやっていたのだ。
今回の旅は、出会いと奇跡の連続だった。
出会いによって、固く閉ざされた門の扉が次々と開いたのだから。
首里城では、消失した中山門から、龍潭池の水面を愛で、天女橋で「エウレカ!」し、守礼門、歓会門、瑞泉門と、さまざまな門をくぐってここに来た。
沖縄出身のRや鳥ちゃんと旅したからこそ、福州で、そしてここ沖縄で大きな気づきもあった。
大きな収穫は、閩人三十六姓を知ったこと。
14世紀、洪武帝の命令で閩(福州)から琉球へ渡来した職能集団。
航海術、造船、外交、商談取引など、高いスキルを買われた選ばれし者たち。彼らが、琉球王国と中国、東南アジアと交易で往来するうちに、久米村に定住するようになったという。それが、現在の福州園のあたりだ。
中国人は国外にチャイナタウンを作るイメージだが、閩人三十六姓はそうではなかった。中国人でありながら、琉球に暮らし、琉球に仕え、交易に大きく貢献し、子孫に至るまでその高いスキルを継承していった。
琉球墓地に眠る彼らの姿を見て、死の旅を続けそこで眠る彼らの墓地名は「琉球」と名打たれ、文革やさまざまな時代を経てひっそりとそこに眠っていた。
そんな彼らの真の姿はまだまだ謎に包まれている。
琉球王国は滅んだが、独自の文化は「遺産」として受け継がれている。
その「遺産」が生み出されたのは、閩人三十六姓のおかげなのかもしれない。
焼けた首里城に不死鳥を見た我々。
その不死鳥を支えた閩人三十六姓たちは今もひっそりと琉球に根ざしているのだ。
今回の旅で、私は閩人三十六姓の姿にちょっとだけ近づけた気がする。(女優・洞口依子)