検察人事に介入、かつては倍返し 70年近く前の「木内騒動」、さて今回は?

By 竹田昌弘

 1950年6月の第3次吉田第1次改造内閣で、法務総裁(現法相)となった大橋武夫は51年、最高検次長検事の木内曽益(つねのり)を札幌高検検事長に左遷し、広島高検検事長の岸本義広を次長検事に就けようとして、検事総長の佐藤藤佐(とうすけ)らと衝突した。「木内騒動」と呼ばれる。安倍政権が検察官では前例のない定年延長を黒川弘務東京高検検事長に適用したことを巡る「黒川騒動」は、70年近く前の木内騒動と同様、政治による検察人事への露骨な介入に他ならない。木内騒動を振り返り、黒川騒動にも当てはまる教訓を探してみよう。(木内騒動関係は敬称略、共同通信編集委員=竹田昌弘) 

検察長官会同に出席した黒川弘務東京高検検事長(右)と林真琴名古屋高検検事長=2月19日、法務省

■しのぎ削る「思想検察」と「経済検察」 

 検察では1960年代まで、二つの派閥がしのぎを削った。戦前は警察とともに、治安維持法などに基づき、国家体制に反対または批判的な思想の取り締まりに当たり、戦後は公安事件を担当した「思想(公安)検察」と、戦前から政治家や官僚の汚職などを捜査する「経済(特捜)検察」で、岸本は思想検察の、木内は経済検察のそれぞれ代表格だった。 

岸本義広

 戦前、戦中は思想検察に連なる検事が「思想検事にあらずば検事にあらず」とまで言われ、要職を占めたが、その多くは46年1月、連合国軍総司令部(GHQ)の命令で公職追放となった。ただ朝鮮戦争が始まった50年以降、日本再軍備などGHQの占領政策が変更する中で、思想検事も順次復職した。 

 岸本は戦中に大審院検事(現最高検検事)から東京地裁検事局次席(同東京地検次席検事)、東京地裁検事局検事正(同東京地検検事正)へと昇任した。ところが、敗戦後は公職追放こそ免れたものの、大審院の閑職を経て、46年に札幌控訴院検事長(その後札幌高検検事長)へ。49年には、広島高検検事長に異動させられた。

昭電疑獄公判で無罪となり、取材を受ける元首相の芦田均=1952年10月22日、東京地裁

■昭電疑獄と炭鉱国管汚職、政界に衝撃 

 一方、思想検事の公職追放で、経済検察の検事が要職へ就く。東京地検は48年、復興金融金庫から昭和電工への融資などを巡り、収賄や贈賄などの疑いで、前自由党幹事長の大野伴睦ら多数の国会議員や官僚、銀行の幹部、昭和電工の幹部らを逮捕、起訴した。芦田均内閣は総辞職に追い込まれ、その後、前首相の芦田も逮捕、起訴された。

 逮捕者が60人を超えた「昭電疑獄」は政界にとって大きな衝撃だったが、その捜査終結の直後、今度は炭鉱の国家管理法案を巡り、収賄や贈賄などの疑いで、法務政務次官の田中角栄(後の首相)ら政治家と炭鉱業者が検察に逮捕、起訴された。「炭鉱国管汚職」と呼ばれている。経済検察が思想検察の暗いイメージを取り払い、国民の支持、信頼を得たかのように見えたが、裁判では「職務に関連していない」「賄賂とはいえない」などとして、昭電疑獄の大野や芦田ら政治家のほとんどが無罪となり、炭鉱国管汚職の田中らも無罪が確定した。 

勲一等親授式を終え記念写真に納まる木内曽益(右から1人目)=1966年5月7日、宮内庁

■経済検察を率いる木内と馬場 

 木内は、戦前に「日糖疑獄」や「シーメンス事件」という汚職を手掛け、検察に「不羈(ふき)独立の精神」を確立したと言われる元司法相、小原直の門下生。「五・一五事件」や「二・二六事件」の民間人関与も捜査した。「思想検事にあらずば〜」の時代となり、東京を追われた。

 しかし、敗戦後の46年6月、浦和地裁検事局検事正(現在のさいたま地検検事正)から、岸本の後任として東京地裁検事局検事正(47年5月から東京地検初代検事正)に呼び戻され、検察事務全般を見る司法省(48年2月から法務庁)検務長官を経て、最高検次長検事に昇進した。「検察は政治と結託してはならない。軍部と結んで国民を弾圧した暗い思想検察のイメージを払拭し、新しい検察を再建できるのは、汚れた手の思想検察ではない」として、思想検事には差別的な人事異動を続けた。 

馬場義続

 木内が東京地検検事正のとき、腹心の馬場義続(よしつぐ)を東京地検次席検事に引き上げ、馬場が47年、後に「特別捜査部(特捜部)」と改称する隠退蔵事件捜査部を創設した。馬場は「政治権力にも社会の風潮にも左右されず、法律違反だけを厳しく追及するのが、検察の正道だ。このことは検事なら誰でも知っているが、実行するには勇気がいる」というのが口癖だった。その後、次長検事の木内が馬場を東京地検検事正に引き上げ、2人が経済検察を率いた。 

■左遷人事に徹底抗戦するも木内辞職 

 大橋は内務官僚出身で、弁護士でもあった。元首相浜口雄幸の娘婿。衆院議員に初当選したばかりだったが、吉田茂が法務総裁に抜擢した。大橋や吉田には、政治家を敵視し、多くが無罪となった昭電疑獄や炭鉱国管汚職を立件した経済検察に対し「国家あっての検察であることを忘れたのか、絶対に許さない」という思いがあったとみられる。公職追放とならず、地方にいながら思想検察の中心人物となった岸本は、政治家との付き合いが広く、木内による差別的な人事への不満を彼らに伝えるなどして、復権を狙っていた。 

大橋武夫

 法務総裁就任から半年余りたった51年1月、大橋は岸本が高検検事長を務めていた広島で記者会見し「検察幹部の異動を行いたい。人事で清新の気を吹き込む」と宣言する。大橋は検事総長の佐藤に対し、次長検事の木内を格下の札幌高検検事長に転出し、次長検事に岸本を充てる人事案を示した。佐藤は拒んだが、大橋は「検事の人事権は国務大臣である法務総裁の私にある。不服ならば辞表を出したらいい」と通告した。 

 木内は徹底的に抵抗する。検察官は検察庁法で「検事総長、次長検事、検事長、検事および副検事とする」(3条)と定義され、定年退官や懲戒処分、検察審査会が心身の故障などで職務を執れないと議決した場合を除き「その意思に反して、その官を失い、職務を停止され、または俸給を減額されることはない」(25条)と身分が保障されている。木内は、札幌高検検事長への異動は意に反して次長検事の「官」を失わせるものであり、検察庁法25条に違反すると主張した。佐藤も「検察庁法を立法するとき、次長検事も検事長も、それぞれ一つの『官』にした」として、木内の説を支持した。 

 これに対し、大橋は「次長検事という検察官から、検事長という検察官に異動するのだから、検察庁法に違反しない」と反論したが、この論理が通れば、法務総裁は言うことを聞かない検事総長を副検事に左遷できてしまう。吉田らは慎重となり、妥協案を探り始める。 

佐藤藤佐

 大橋は51年3月6日の閣議に人事案をかけようとする。しかし、佐藤が「法律違反である。納得しがたい」と反対を貫き、吉田からも「慎重に」と伝えられたことから「岸本次長検事は譲れないが、木内は(格下とは言えない)名古屋高検検事長でもいい」と一歩引いた。連日新聞の一面を飾った「木内騒動」は、閣議直前の6日朝、木内が佐藤に辞表を提出し、収束する。 

 木内は辞表提出後、記者団に「内閣が誤った法律解釈を行ったのでは(朝鮮戦争が起こるなど)重大時局を担当する内閣に一大汚点を残すことになると考え、辞職を決定した。これは売られたけんかで、結果において私は負けたとは思っていない。検察官の身分保障については、無謀なことは強行し得ないという事実は一般に知らしめたと思う」と語った。 

■大橋を取り調べ、法務総裁外れる 

 大橋は「検察庁には目玉が二つある。第一の目玉は抜いたから、次の目玉は馬場だ」と意気込んでいたが、馬場は51年10月、大橋が顧問弁護士を務めていた足利工業の「二重煙突事件」を巡り、大橋に質問書を突きつけた。 

 事件は、国が米軍の宿舎に取り付ける長さ5万フィート分の二重煙突を足利工業に発注したところ、同社は1万8千フィート分しか納入できなかったのに、完納したように書類を偽り、5万フィート分の約4100万円の支払いを受けたというもので、詐欺容疑などで足利工業の社長や専務らが逮捕された。大橋には、①詐欺への関与、②同社からもらっていた顧問料月3万円に関連する所得税法違反、③衆院選で同社専務から受け取った20万円の政治資金規正法違反―などの疑いがあり、質問書となった。 

 さらに馬場は同月30日、参考人として呼ばれた参院決算委員会で、二重煙突事件と捜査の経過、大橋の嫌疑、質問書を出したことなどを詳細に説明した。その上で「法務総裁であるから取り調べの矛先を鈍らしたという趣旨ではありません。回答に承服できなければ、直接お尋ねすることもあろうかと思います。必要があれば、十分納得の行くまで取り調べをするつもりです」と述べた。 

 大橋は東京地検特捜部長の取り調べを受け、嫌疑不十分や公訴時効を理由に不起訴処分となったが、51年12月の第3次吉田第3次内閣改造で、法務総裁を外された。馬場が再び人事権で攻勢に出てくるであろう大橋の機先を制し、捜査権で失脚させた形となった。 

花井 忠

■経済検察、選挙違反で岸本を逮捕 

 岸本は次長検事から法務事務次官となり、57年7月、佐藤が在任約7年で退官し、弁護士から東京高検検事長に転じていた花井忠が検事総長に就任すると、東京高検検事長に。馬場は最高検刑事部長を経て、岸本の後任の法務事務次官に昇進した。 

 法務事務次官として検事の人事権を事実上握った岸本は、東京地検特捜部の検事を異動させるなどして、経済検察の弱体化を図った。その後、東京高検検事長に就いた岸本は、自分が次の検事総長と考えていたとみられるが、そうはいかなかった。

 花井は2年も務めずに辞意を漏らし、後任には公職追放から戻り、次長検事を務めていた清原邦一を指名した。思想検察と経済検察の派閥争いから距離を置いていたところを評価したと言われる。突然の検事総長交代と「岸本飛ばし」は、法務事務次官として人事に意見できる立場となった馬場の存在を抜きには考えられないだろう。清原は岸信介首相や愛知揆一法相の同意を得て、59年5月、初めて検察官出身の生え抜きの検事総長となった。 

 岸本は60年4月に定年退官後、同年11月の衆院選に自民党公認で旧大阪5区から立候補し、当選を果たす。だが、経済検察は岸本を放っておかなかった。大阪地検特捜部が9カ月にわたって陣営の選挙違反を捜査し、岸本本人と実兄、次男ら50人以上を公選法違反(買収)の罪で起訴した。岸本は次の衆院選で落選し、馬場が検事総長となった約2カ月後の64年3月、大阪地裁堺支部で執行猶予付きの有罪判決を受けた。馬場が率いた経済検察は、木内騒動の借りを2倍、3倍にして返したと言えるかもしれない。岸本は65年9月、温泉で湯治中に心臓まひを起こし、亡くなった。 

■長く尾を引き、検察組織を痛める

 木内騒動から得られる教訓は、まず政治が検察人事に介入すると、長く尾を引くということ。51年3月の木内辞職から岸本の有罪判決まで、遺恨は実に13年も続いた。岸本の経済検察に対する人事は確かにひどかったが、馬場も例えば、岸本が検事長当時の東京高検次席検事だった岡原昌男を京都地検検事正に飛ばし、5年も放置した。検察組織はずいぶん痛んだのではないか。 

 また人事権に捜査権で対抗したのは、検察の在り方として異常ではないか。大橋が取り調べを受けた容疑は、別の弁護士であれば、捜査しないケースだろうし、岸本の選挙違反事件は、別の候補者であれば、9カ月もかけて徹底的に捜査しないだろう。 

法相に就任し安倍首相と記念写真に納まる森雅子氏=2019年10月31日午前、首相官邸

 今回の黒川騒動を巡り、森雅子法相は野党の質問に向きになって反論し、木内騒動の大橋とダブる。全国の高検検事長と地検検事正を集めた2月19日の検察長官会同では「定年延長について伺いたい。検察は不偏不党でやってきた。このままでは検察への信頼が疑われる。国民にもっと丁寧に説明すべきだ」と発言した検事正がいた。同じ気持ちの検事は多いとみられる。このままだと、黒川騒動も10年以上尾を引き、検察組織を痛める。捜査権が使われることがあれば、かつてと同じ異常な検察となる。そうした事態を避けるには、安倍政権は黒川氏を検事総長にするまで一歩も引かないだろうから、黒川氏が検察のため、自ら身を引くしかないのではないか。(東京地方検察庁沿革誌、山本祐司氏「特捜検察物語(上)」、渡辺文幸氏「検事総長ー政治と検察のあいだで」を参照した)

© 一般社団法人共同通信社