現代国語にも「どんな文章も理解できる力」「どんな設問も解ける力」が必要。そうしてたどり着いた勉強法とは

国語の授業は、英語などに比べて思ったよりも効果を上げることができない科目と言われています。長年現代国語を指導してきた出口先生によると、その要因の一つに「再現性の低さ」があると言います。いったいどういうことなのでしょうか。

  • 再現性が低い国語の解法
  • 現代文の解法に再現性を求める
  • 帰納法と演繹法で現代文を解く

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再現性が低い国語の解法

多くの国語の授業が思ったよりも効果を上げることができない原因の一つとして、再現性が低い点が挙げられます。

私がはじめて予備校で国語、とくに現代文という科目を教えたとき、入試問題を集めたテキストを手に、これでいったい何を教えたらいいのか、途方にくれたことを覚えています。もちろん自分なりに問題を解き、なぜそのような答えを導いたのかをわかりやすく説明することは、ある程度できます。しかし、そこにどんな意味があるのでしょうか。

ある大学の入試問題をたとえ完璧に説明できたとしても、同じ文章で同じ設問が、実際に出題されることはほとんどありません。英語ならば、重要な単語やイディオム、構文などを指摘し、文法事項を説明し、英文を日本語訳すれば、ある程度授業は成り立ちます。しかし、現代文は日本語で書かれた文章を教えるので、記憶すべき知識はほとんどないですし、日本語の文章を日本語に訳すわけにもいきません。

当時、予備校講師として駆け出しだった私は、何をどう教えていいのかわからず、マイクを握りしめながら問題文を読んで、思いついたことを脂汗かきながら必死になって喋っていました。こんな講義を聴いたところで、学力がつくとは到底思えず、縋り付くような受験生の目に後ろめたい思いでした。それでも、生徒の評判はそれほど悪いものではありませんでした。その理由は、どうも他の講師も似たり寄ったりで、問題文から想起される雑談を散々述べた後、唐突に答を発表するといった具合で、それならばまだ若く、情熱的な講義をする分だけ、まだ私のほうがましだったというわけです。

つまり当時は、ほとんどの生徒が現代文の講義には期待していなかったのです。努力しても成果が現れないのはセンスがないせいで、生徒の「どうすれば国語の点数が取れますか?」といった質問に対しては、「本をたくさん読みなさい」「問題を多く解きなさい」としか答えることができなかったのです。

現代文の解法に再現性を求める

私はどんな文章でも理解できる力、どんな設問でも解ける力を生徒に与えなければ、その講義に価値がないと考えました。現代文の解法に再現性を求めたのです。

論理的推論に、帰納法と演繹法があります。帰納法とは具体から抽象を、演繹法はそれと逆で、抽象から具体を求める方法です。たとえば、リンゴが地面に落ちる運動、振り子の運動など、個々の異なる現象から共通点を抽出すると、「すべての物と物とが引っ張り合う」という万有引力の法則が成り立ちます。これが具体→抽象といった帰納法です。

一方、「すべての物と物とが引っ張り合う」ならば、太陽と地球も引っ張り合うだろうと推測するのが、抽象→具体で、演繹法です。その結果、太陽のほうが圧倒的に重いのだから、必然的に地球は太陽の周りを廻るしかないと、私たちは目に見えないもの、体験できないことも推測することができます。演繹法は、正しい論理的な手順さえ踏めば、誰でも正解に至ることができますが、帰納法はある種のひらめきが必要なため、ある程度才能が必要になります。

実は大学受験までで必要とされるのはこの演繹法なのです。数学でも公式(抽象)をもとに、個々の具体的な答(具体)を出せばいいのだし、物理でも公式から個々の現象を説明できればいいだけです。そして、演繹法はひらめきも才能も必要とせず、ただ論理的な手順さえ踏めば誰でも答えを導くことができるのです。

帰納法と演繹法で現代文を解く

現代文においても、この帰納法と演繹法が有効だと、私は考えました。一つ一つの問題はすべて具体であり、同じ問題文に同じ説明などまずあり得ない。そこで、個々の問題から共通の読み方、解き方を抽出するという帰納的な頭の使い方をはじめました。

次に演繹法。私が考えた法則をもとに、個々具体的な問題を説明します。どんな文章でも理解できる共通の読み方、どんな設問でも解ける共通の解き方です。そして、生徒には演繹的な頭の使い方を教えていきました(演繹法は特別の才能は必要ないから、誰でもできようになるはずです)。そして、それが可能なのは、現代文が論理の教科であることの証拠にもなります。

あるとき、私は生徒に「現代文は論理の教科である」と宣言しました。「それが本当かどうかは、君たちの目で確かめればいい。これからすべての問題を一貫した論理で解いてみせる。それが可能だと君たちが判断したなら、現代文は論理の教科だと認めざるを得ないだろう」と。

生徒たちの眼が輝きだしました。それは何も私の主張に納得したからではなく、私の言うことが本当かどうか確かめてやろうという、挑戦的な眼でした。私は彼らの前で自らの退路を断ったのです。それから約40年、もう現代文が論理の教科だということは、実証できたのではないでしょうか。

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