『占』木内昇著 それを幸とみるか不幸とみるか

 20代や30代の頃。自分の人生は、自分以外のなにかの意志に、導かれているのだと思っていた。たとえば、星座。あるいは、前世。はたまた、姓名の画数。今は亡きご先祖たちや、目には見えないらしい守護霊とやら。自分では制御できない出来事が起こるたび、それらのものたちの意志なのだからしょうがないと、自分を納得させていた。自分のままならぬ人生を、それらのものたちのせいにしていた。けれど40代半ばを過ぎた今は、それとは違う実感を抱いている。私の人生の主導権を握っているのは、私だ。私以外の何ものでもない。

 「占い」と名のつくものに、昔ほど翻弄されなくなった今、この1冊に出会った。占いに翻弄される人たちの、翻弄されまくりの季節を紡いだ短編集。主人公には占う者あり、占われる者あり、その事情は様々である。でも全編に渡って、ある価値観が貫かれている。

 人は結局、自分の人生を、自分で選び取っている。

 たとえば、年下の大工見習いに恋した女。その大工見習いは、彼女の家に通ってはくるものの、お前よりも妹が大事だときっぱり言い切る。行方不明の妹を探し、見つけ、女郎屋からもらいうけることにのみ執心する男の、自分への思いを探るべく、女は占いに取り憑かれる。

 たとえば、向き合う相手の状況や人生が、耳の内に聞こえてくるカフェーの会計係。その能力にすがりついてくる女たちは一様に、自分ではない誰かの真意を、なぜか本人ではなく彼女に聞いてくる。耳の内の声を相手に伝えながら、女給は心底、うんざりしている。

 女たちは、望まざる結果を聞いても納得しない。求めるのはただ「お相手はあなたを愛しています」のひと言なのだ。

 それにしても、ため息が出る。描かれる女心の細やかなこと。何らかの拍子に、自分はひょっとして不幸せなんじゃないかと疑念を抱く女たち。そのとたん、不幸は対岸の火事ではなくなる。自らの懐が、すでにぼうぼうと燃えていることに気づく。でも女たちは、不幸になりたいんじゃないのだ。むしろ幸せになりたくて、自分は幸せなのだと確認したくて占いに走る。

 全部で7つの短編を、読み終えてしまうのがもったいなくて、ちびちびと読む。ひとつ読み終えては、ため息。どの女たちも、こう教えてくれる。幸せは、他から与えられるものではない。私たちは自分の人生を、あらゆる工夫を凝らして、自分の手で塗り替えながら生きていくのだ。

(新潮社 1800円+税)=小川志津子

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