変わりゆく渋谷の思い出

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東横デパートに展示中の渋谷のジオラマとひばり号

 変わりゆく渋谷については以前にも書いた。

 しかし、実際の変化を目の当たりにすると、口笛吹いて足取り軽やかになれない自分がいる。渋谷には、あまりにもたくさんの思い出があるから。

 「#東横デパート閉めるってよ」 

 渋谷のあちこちの看板に踊るこのコピーは、映画『桐島、部活やめるってよ』のパロディーに違いない。

 私にとって東横デパートは、日々通過する渋谷のランドマーク的存在だ。

 いまだに東横デパートがなくなるという現実を受け止めきれず、上の階から地下まで理由もなく歩いてみたりする。

 東横劇場は現在の食堂街の辺りだろうか。

 劇場へ続く階段、ここは 幼い頃の記憶に残っている。

 木馬座のケロヨンを見に行った時だろうか。私はこの階段の手すりの曲線を何度もなぞったりなめたりして、母に叱られたり呆れられたりした。思えば〝とても子どもらしい〟少女だった。

東横デパートの階段のそれぞれ

 東横デパートの中で、いつも立ち寄りたくなるのが、甘味喫茶「銀座立田野」。

 何かを成し遂げたと思えた時、ここで「あんみつ」をひとりで食べるのが私の〝儀式〟だった。成し遂げたといっても、それは恋愛だったり別れだったり、誰にも言えない秘密めいたことばかり。

 私は今でも、お年頃の娘が抱える秘密ほど大胆不敵なものはないと確信している。

 高校時代は、神宮前の喫茶店でのアルバイトの帰りに、よく渋谷で遊んだ。

 友達を介して知り合った〝ほらしん〟こと洞口信也君は、名字が同じだったので意気投合。   

 彼のバンド仲間と私たち女子高仲間はファミレスの「ジョイタイム」でよくたむろした。

 そのバンド仲間の西尾智浩君は、あの「亀の子束子(たわし)」のご子息だったので、南平台のお屋敷を見学に行ったことがある。

 大きなギターを背負い転びそうなロンドンブーツを履いて屋敷へ消えてゆく西尾君の後ろ姿は、まるでロック映画のワンシーンのようで今でも目に焼き付いているほど。

 あれから時は流れ、洞口君はクレージーケンバンドのベーシスト、西尾君は浜崎あゆみなどのサポートギタリストとしてそれぞれ活躍。そして現在、西尾君は「亀の子束子西尾商店」を継いでいる。

 あの頃みんなでたむろした「ジョイタイム」はもうないし、〝ほらしん〟がバイトしていた山手線ガード下のカレー屋もなくなったけれど、ハチ公は相変わらずあそこに座って誰かを待っているし、東横デパートもとりあえずまだある。

 でも、東横が3月末に閉店したら、もう渋谷の駅周辺は思いきり変わってしまう。

 渋谷駅から大人に手を引かれ初めて飛び乗った東横線。

 車窓から知らない街並みを遠くに、まだ見ぬ未来を探す15歳の私。

 田園コロシアムでのサザンオールスターズ・ライブ「ニャー!ニャー!ニャー!」。

 その前座だった天才ギター少年、鈴木賢司さんのギターサウンドに完全にやられ、

 詩的で反骨心を持った大人になることを決意した。

 それ以後、週末はほとんど家に帰らず遊びほうけることになっていった。

 

東横線のあの壁と立田野の「あんみつ」

 女優になってからの私にとって渋谷の街は、映画と愛と労働の街。

 円山町のラブホテル街に初めて行ったのはドラマ『愛という名のもとに』(フジテレビ)のロケだった。ラブホに連れ込まれる場面を、ラブホの玄関口でなんだか意味有り気にササッと撮影したのを覚えている。

 円山町には、私のデビュー25周年『洞口依子映画祭』を開催した映画館「シネマヴェーラ」もある。

 そこを起点に、ネットシネマ探偵事務所5『マクガフィン』(06)のゲリラ宣伝で東急本店まで練り歩いたことがあった。

 のんきにウクレレを弾いて練り歩きながら、チラシを配布するなんてどうかしている。

 今ならすぐ警察にとがめられたりするんだろうけれど、そういうのを微笑みながら受け止めてくれるのが渋谷という街だった気がする。   

 109からセンター街にかけて、渋谷には危険な香りもあった。

 でも、なんとなくワサワサ歩いているだけで情報交換ができる楽しい街だったのではないだろうか。

 渋谷は、映画のロケ地としてもよく使われてきた。

 老舗台湾料理『麗郷』の界隈は、調べるとさまざまな映画のロケ地だったことが分かる。

 百軒店にある千代田稲荷神社は、ロバート・ミッチャムと高倉健と岸恵子出演のハリウッド映画『ザ・ヤクザ』(1974年シドニー・ポラック監督)のロケ地。当時のスクランブル交差点でもロケをしている。

 東横線の駅構内や井の頭線のガード下は、クレージーキャッツ映画(『クレージーの大作戦』や『大冒険』の冒頭の大空撮など)のロケ地でもあるのだ。

渋谷百軒店名物・ムルギーカレーと喫茶ライオンと千代田稲荷神社

 井の頭線のガード下は、戦後、渋谷で最初に復興した場所だという。

 渋谷に職や物を求めてやってきた人々で賑わったらしい。

 大正15年生まれで、今年94歳になる知人女性は、当時の渋谷を懐かしむ。

 「井の頭のガード下であんみつ食べて、兄貴に露店でカンタン服を買ってもらった。簡単に作れるからカンタン服って言うの。あんたの年じゃ分からないだろうけど、服がまだ貴重だった時代だよ」

 戦後の名残は、私が10代の頃にもまだあった。

 東横と井の頭のガード下には、募金箱を抱えた傷痍(しょうい)軍人がいた。

 靴磨きも健在で、私も何度か磨いてもらったことがある。

 道玄坂の商店街には、昔の看板建築群。

 江戸時代に大山道の茶屋街として賑わい、明治の頃は日本鉄道の渋谷駅が参入。

 複数路線が入り混じる渋谷に、東横デパートができた。

 戦争でほぼ焼け野原になった渋谷だが、道玄坂下に闇市ができると、また賑わいを見せ、東京オリンピックの街の中心となった。

 戦後の渋谷のシンボルといえば、力道山の総合スポーツ施設「リキパレス」。

 キャバレーなども入ったまさに宮殿(パレス)だったそうだが、力道山の死後は流転し、現在は跡地に「ヒューマックス渋谷ビル」が建っている。

 実は、ウクレレバンドの相方・石田画伯が道玄坂にあった画廊のご子息で、リキパレスも東横も知り尽くした生粋の〝渋谷っ子〟。

 「そういえば、安藤昇さんがふらりとうちの画廊に絵を買いに来たことがあるって、お婆ちゃんが話していたっけ」とさらりと言う。 

 道玄坂1丁目に画廊があったという時代。東横百貨店でも、東郷青児の洋画だとかいろいろな絵を売っていたに違いない。

 道玄坂には戦後復員引き揚げの人々が開いた店や恋文横丁などもあり、1970年代後半まであった洋品店「さかえや」(現在のヤマダ電機辺り)と「緑屋」(プライムビル)というのも記憶の隅にある人もいるだろう。

 私はといえば、井の頭線のガード下にあった「渋谷食品」で舶来のミントティーやシナモンティーを買ったり、大人たちにまじって「鳥竹」で山盛りの焼き鳥を平らげ、お土産に焼き鳥丼を持って帰る女子高生だった。

 それにしても、こうしていろいろ思い出していると、渋谷は江戸から明治、戦中戦後、そして現在に至るまで、うねうねと変化し続けている。そうして、メタモルフォーゼ(変身)し続けるのが渋谷という街なのかもしれないとふと考える。

渋谷の街と東横で買ったカーディガンやクッキー缶

 井の頭線のガード下が世の中で一番落ち着く気がする私。

 その理由は以前も述べたが、井の頭線通勤の母親の胎内での記憶のせいで、井の頭線のくすんだピンク色がたまらなく好きで、ガード下にやってくると、なぜかホッとするのだ。

 不思議なもので、母が私を産んで今日(3月18日)で55年。

 東横デパートがなくなる話を、認知症の母にある時してみた。

 「お母さん、東横デパートなくなるってよ」

 「あら、どうしたの? なくなるって、犬はどうなるの?」

 「犬、犬ってなによ?」

 「ほら、犬いたじゃない」

 「ああ、ハチ公。あれは……いるんじゃないかしら」

 「そう。だったらいいけど。でも残念ねえ、本当にバハハーイだわねぇ」

 東横がなくなる知らせに、忠犬ハチ公の心配をし、東横劇場の木馬座のケロヨンの最後のセリフを唱える母。「バハハーイ!」の一言は、私の心に刺さった。

 ある日、母への贈り物を買いに東横に立ち寄った際、その話を若い女性店員さんに涙目になりながらしたら、もらい泣きされてしまった。

 こうして、長い長い歴史の幕を閉じる渋谷東急百貨東横店。

 永遠なんてないけれど、いつまでも母と私の記憶の中に残る東横。

 お別れはつらいけれど、長い間ありがとう。バハハーイ!(女優・洞口依子)