痛ましい。
死から2年後、遺書と手記と遺族の言葉によって、彼が名前と人格を持って立ち現れるまで、私は何も分かっていなかった。どのような人を失ったのか。
何も考えていなかった。そのことで何が損なわれたのか。
手記を読み、彼こそは官僚としての人生をまっとうしてほしかったと痛切に思う。彼が命を落としたことは、もちろん彼や彼の周囲に人にとって痛恨だったと思うが、このような誠実な、徳が高いといってもいいような人を、行政から失ったことは、市民社会にとっても、大きな損失だった。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)
少し遠回りになるが、まず自殺一般について述べる。
国の自殺総合対策大綱は「誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現を目指して」というサブタイトルを掲げる。「追い込まれる」という表現に、自殺への基本認識は鮮明だ。本文は次のように表現する。
―個人の自由な意思や選択の結果ではなく、「自殺は、その多くが追い込まれた末の死」ということができる―
用語について言及しておきたい。その死が、「大綱」が述べるとおり、他に選ぶ余地がないほど追い込まれた結果であるなら、自ら意図して自らを殺す「自殺」という言葉より、本人の意思についてより中立的な「自死」という表現の方が、事態に妥当する。本稿は以下、自死という言葉を用いる。
そこで問題は、彼が何に、あるいは誰に、どのように追い込まれたのかということになる。近畿財務局職員、赤木俊夫さんは55歳の誕生日を3週間後に控えた2018年3月7日、自死した。
彼より主体的に悪事に関与したと思われる人たちは、何もなかったかのように生き永らえ、あまつさえ“出世”した人もいる。手記によれば、その行為をためらいなく、確信犯的に行い、指示以上の達成を果たした人もいた。
哲学者ハンナ・アーレントによる「悪の凡庸さ」という言葉を想起する。ナチスによるユダヤ人ホロコーストにおいて、中心的な役割を果たしたアイヒマンの裁判を傍聴したアーレントが、彼とその行為を評価した言葉だ。おのれの「悪」について、あまりにも無思慮・無自覚な人たち。
しかし、ことは戦時の全体主義の下で起きたのではない。平時の日本で起きたのだ。そうであるなら、赤木さんとは違う組織にいて、違う仕事をほそぼそとこなしている私にも、無縁ではないかもしれない。そのことをまず考えたい。
改ざん隠蔽に関与した人のうちで、亡くなった赤木さんと、赤木さん以外の人を分けるものはなにか。
赤木さんの手記には「虚偽」という言葉が頻出し、都合9回にのぼる。ある場合には、それに厳しい修飾語まで付く。「全くの虚偽」「前代未聞の虚偽」「国民の誰もが納得できないような詭弁を通り越した虚偽答弁」というふうに。彼がいかに、うそを嫌っていたかが分かる。
手記は文書改ざんについて「すべて、佐川局長の指示です」と述べるが、虚偽という言葉は、佐川宣寿理財局長の後任である太田充氏(現主計局長)の答弁への評価としても、何度も出てくる。ひとり佐川氏だけでなく、こうした虚偽がまかり通る財務省の体質そのものへの軽蔑・嫌悪が見て取れる。
もともとそうではなかったのだと思う。国の仕事を着実に、誠実にこなすことに、誇りを持っていたはずだ。手記からも、報じられている妻の証言からも、そう感じる。口癖は「ぼくの契約相手は国民です」。
それを知って、憲法の「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」という条文(15条2項)を思いだした。為政者や上司の奉仕者であってはならないと、赤木さんは考えただろう。
国家公務員法の1条1項も「職員がその職務の遂行に当り、最大の能率を発揮し得るように、民主的な方法で、選択され、かつ、指導さるべきことを定め、もって国民に対し、公務の民主的かつ能率的な運営を保障することを目的とする」と述べる。
「民主的」という言葉が2度も出てくるが、国家公務員法であるから、民主的とは、国民が主人公であるという意味だろう。赤木さんの口癖に重なる。
さらに1条3項後段は「何人も、故意に、この法律またはこの法律に基づく命令の施行に関し、虚偽行為をなし、もしくはなそうと企て、またはその施行を妨げてはならない」と規定する。赤木さんの嫌った「虚偽」行為は、明確に禁止されている。
手記をスクープした週刊文春の記事によれば、赤木さんは大学を出て、すんなりと公務員になったのではない。高校卒業後、国鉄に入り、国鉄が解体されたとき、中国財務局に採用された。国策に翻弄されたことになるが、それは悪いことではなかったようだ。大学の夜間コースに進学するため、京都財務事務所に異動している。希望をかなえてくれた職場に、恩義さえ感じていたかもしれない。
こうした経路をたどったからこそ、公務員という仕事について、その使命やあり方について、深く考えていたのではないか。その思索が「ぼくの契約相手は国民」という言葉に詰まっているのだと思う。
組織の違法な命令に盲従することはできなかった。上司の「不正をなせ」という指示を実行するわけにはいかないという思いが、他の人よりも強かった。もっと上位の理念に仕えていたからだ。それは「国民のため」という理念だった。
強く抵抗もした。それでも従わざるを得なかった。挫折と幻滅が、彼の心に与えた打撃の大きさを想像する。どれほど絶望的な気持になっただろう。
いまの日本では、ないものねだりだが、「抗命権」があったら、と思う。戦前の二・二六事件について取材したとき、元陸軍法務官だった弁護士から、その権利のことを教えられた。法的には厳密さを欠くかもしれないが、次のような説明でそう間違っていないはずだ。
組織の決定や上司の命令が、自己の良心や正義と信じるものに照らしてどうしても受け入れがたいとき、指示や命令にあらがい、拒否する権利。一歩進んで、それが非人道的な命令であった場合には、「抗命の義務」さえ生じる。
ドイツ軍人法にはその規定がある。2000年代に入って、ドイツのイラク戦争への参加は国際法違反と考える軍の少佐が、米軍支援に関係する業務を拒否、大尉に降格された。彼は裁判で争い、05年に勝訴して地位を回復している 。
ことは軍隊組織に限らないはずだ。抗命権や抗命の義務が社会に広く知られて認容され、法定されているような社会だったら、赤木さんも命を落とさずに済んだ。残念でならない。(この項続く)