どうしてあなたは南極へ? 異色の経歴の隊員たち 自動車整備士から料理人へ、外資系企業からヘリパイロットへ

ヘリコプターを操縦する佐藤睦さん=1月、南極・ラングホブデ氷河(共同)

 南極観測隊を支える人たちの中には、異色の経歴を持つ人もいる。自動車整備士から昭和基地の料理人へ。外資系企業勤務からヘリコプターパイロットへ。どうしてあなたは南極へ? 今回はそんな人たちを紹介する。(気象予報士、共同通信=川村敦)

 ▽〝つなぎ〟の仕事で調理の道へ

 1年間の南極生活を終えた第60次南極観測隊越冬隊の調理担当、関裕子(せき・ゆうこ)さん(45)=千葉県勝浦市=は自動車整備士や、カースタントをへて調理の職に入った。料理の道に入ったことも「アルバイトの派遣先がたまたま調理場だった。次の就職先を探すまでのつなぎのつもりだった」と振り返る。  岐阜県内の短大を卒業後、最初に就いた仕事は自動車整備士。それも、高校卒業後、「就職する覚悟がなくて、先生に紹介されたのが自動車関係を学ぶ短大。入りやすそうだったから」進んだ道だった。千葉県内にある車のディーラーで3年ほど働いたが「車に興味がなかった」と辞めた。

 次に飛び込んだのはカースタントの芸能事務所。雑誌で募集していることを知り、演劇が好きだったこともあって話を聞きに行く。「やめた方がいい。ただ、3年は弟子入り期間だから、住むところと食事の面倒は見る」と言われた。当時、経済的に苦しかった関さん。生活のために入ったという。

 歩道橋から飛び降りたり、車にはねられたり。5年ほどスタントマンをやった。このときのことを「楽しいしやりがいもあった」と回想する。一方で「運動神経もセンスもなく、けがもあった。仕事の終わりが27時とか。5年もやっていると、芸能界はちょっとおかしいと思い始めた」。それでスタントマンを辞めた。

 その後、派遣のアルバイトで送り込まれたのが長野県にある志賀高原のホテルの調理場。デザートの担当で、まずは盛り付けから始まった。28歳だった。

 とはいっても、最初は見よう見まね。あるときは人手が足りないため料理長から「ケーキ作れる?」と聞かれた。「1回作ってみます」ということでやってみたが、以前一緒に働いていた人に電話で聞きながら作った。デザートだけでは仕事に限りがあると、職場で学びながら洋食にも手を広げた。30代半ばで調理師免許を取った。

昭和基地のキッチンで調理する関裕子さん=2019年6月(第60次南極観測隊の小山悟さん提供)

 ▽6回目の応募で合格

 南極観測隊が料理人を募集していることを教えてくれたのは、調理隊員の経験者。ある時期働いた別のホテルの料理長だった。話を聞いて興味を持ち、悩んだが「のりと勢い。行けたらもうけもの、物は試し」と公募に応募した。しかし、最初は書類で落ちた。「3回受けてだめならもういいかなと思っていたが、周りが『今年も受けるでしょ』みたいな感じで。引くに引けなくなった」。6回目の応募で合格を果たした。

 昭和基地で作った料理は肉じゃが、スパゲティ、ハンバーグ、魚の煮付けなど定番が中心。南半球の冬至を祝う「ミッドウインター祭」といった特別な日にはコース料理も振る舞った。「ロブスターのビスク」「鴨のオレンジ風味」など、本格的なメニューだ。だが、もう1人の調理隊員がお店で出すような手の込んだメニューなら、自分は家庭料理に徹しようと考えた。調理隊員は2人いて、ほとんどの場合、交代して1人でつくる。2人でやるのは宴会のときなどに限られるのだという。

 そんな関さん、南極の1年間を終えて、どうだったのか。

第60次南極観測隊越冬隊調理担当の関裕子さん=2月、南極海(共同)

 「自分はご飯を作るのが仕事。が、ほかの人がご飯を食べるのは仕事ではない。献立を考えて出しても、温度差を感じることもあった」「お店ならメニューは決まっているが、昭和基地は毎日、朝昼晩違うメニュー。そんなに引き出しを持っていない。冷蔵庫の中で1時間くらい考えたこともあった」「隊員の好みの差もある。万人受けする味付けにするが、みそ汁を『お湯?』と言われたこともあった」

 葛藤をこんなふうに説明してくれた関さん。「充実していたかどうかも分からないほど緊張していた。やっと終わった」と、振り返った。「調理の仕事はやりたいことというより、自分にできること」という言葉が印象的だった。

 ▽会社辞め、オーストラリア留学

 「あれが長頭山」「あそこはペンギンの営巣地」。氷河や氷山などの絶景が広がる南極の上空を飛ぶヘリコプターの操縦席に座る佐藤睦(さとう・むつみ)さん(54)は、観測などに向かう隊員を運ぶかたわら、まるで観光案内のように言葉が飛び出してくる。オーストラリア在住の操縦士だ。今回の第61次隊で南極観測隊参加は6回目になる。観測隊員からは、オーストラリアで使っている通名の「マットさん」と呼ばれて親しまれている。

 南極観測船「しらせ」には、人員や物資を輸送するため、運航する海上自衛隊の大型ヘリ2機のほかに、観測隊がオーストラリアの会社からチャーターする小型ヘリも積んでいる。佐藤さんはその操縦士だ。

ヘリコプターの操縦を担う佐藤睦さん=1月、南極・ラングホブデ氷河(共同)

 宇都宮市出身。大学卒業後、東京都内にある外資系の家具メーカーで2年ほど働いていた。英語が苦手だったため、上司に「海外に行って勉強したい」と相談した。返ってきたのは「英語だけじゃなくて何か手に職を付けないとだめだよ」という言葉だった。

 英語を学びつつ手に職を、ということでなぜか思いついたのがヘリの操縦士だったという。「何かあったのか、どこかで見たのか、覚えていない」。留学先を探したところ、行けそうなのがアメリカかオーストラリアだった。佐藤さんによると、当時は日米貿易摩擦によるジャパンバッシングの激しい頃。それでオーストラリアを留学先に選んだ。

 会社を辞め、オーストラリア・アデレードにあるパイロットの養成学校へ。2年で卒業すると「もうちょっとオーストラリアにいようという気持ちになって」現地で仕事を探した。各地のヘリコプター会社に履歴書を送ったり、電話したり。履歴書は100通くらい出したという。中には「無給だけど来てみるか?」という反応もあった。それでも佐藤さんは経験を積めると、飛び込んだ。そのうちにパイロットの仕事が入り始め、30歳くらいのときには食べていけるようになった。

 英語もできるようになった。「日本語がなくなる状況が重要だった。学校でもしゃべらないと分かってくれないし、おしゃべりになんなきゃと思った。それまではシャイで、あんまり人に話しかけるタイプじゃなかった」と振り返る。

 観測隊に初めて参加したのは2013~14年の第55次隊。それまで、観測隊のヘリ操縦士はオーストラリア人などだったが、佐藤さんは日本語で意思疎通できることを買われた。以来、毎年のように南極の空を飛び回っている。    ヘリポートのない岩の上はもちろん、ときには氷河の上に着陸することもある。記者も佐藤さんの操縦するヘリに実際に乗り、氷河の上に行った。佐藤さんは「毎回毎回がチャレンジ。何回行っても新しいし、あきない。無理をしてはいけないが、ある程度無理をしないと仕事にならない」と南極の魅力を語る。

 いきなり仕事を辞めて海外に留学するにためらいはなかったのだろうか。佐藤さんは「なんとかなっちゃった。やってみないと分からない。案外なんとかなるもの」と笑っていた。

 ▽取材を終えて

 さまざまな仕事を経験し「調理の仕事はやりたいことというより、自分にできること」と語る関さん。会社を辞めて留学した佐藤さんは「なんでもやってみること。案外なんとかなる」と言う。新しい世界に飛び込んでいった2人の半生を興味深く聞いた。もちろん、2人も相当な苦労を重ねてここまできた。28歳から調理の仕事を始めるのは大変だったと思うし、オーストラリアで外国人が職を探すのも骨が折れたことだろう。記者は、今どき珍しく大学卒業後ひとつの会社に勤め続けている。気付いたら記者をやって15年ほどたっていたという程度なのだが、2人の軽やかにも見える身のこなしに、もっと肩の力を抜いて生きていてもいいのではないかと思った。

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