「桑田は凄かった」 投げ込む時代にノースロー…沢村賞3度の斎藤雅樹氏が語る“伝説”

通算180勝を誇り“平成の大エース”と言われた斎藤雅樹氏【写真:荒川祐史】

1990年代の巨人をともに支えた2人の右腕

 通算180勝、最多勝利5回、最優秀防御率3回、最多奪三振1回、MVP1回、そして史上4人目となる沢村賞3度という輝かしい実績を誇る、元巨人の斎藤雅樹氏。1990年代に槙原寛己、桑田真澄とともに先発3本柱として大活躍した元右腕は、古巣での投手コーチ、2軍監督を経て、現在は解説者を務める。

 1982年ドラフト1位で入団以来、走り続けた19年の現役生活を振り返る時、際立った個性を持つチームメートの話は避けて通れない。それが、3歳年下の後輩、桑田真澄氏だ。桑田氏は1985年ドラフト1位でPL学園から巨人に入団。ルーキーとして迎えた春キャンプから、他とは一線を画していたという。

「やっぱり桑田はすごかったですよ。選手が自分で考えるとか勉強するとか、巨人にそういう概念を持ってきた。まず、入団して最初のキャンプで『今日はノースローにします』って言ったのは、アイツが初めて。今ではコーチが『今日ピッチングする人?』って聞くくらいだけど、僕たちの時代は『今日は投げません』なんてコーチに言えませんよ(笑)。それでも桑田は『今日はノースローでお願いします』って。僕なんか『そんな制度あるの?』と思ったくらい(笑)。当時から投げ過ぎないように、メリハリをつける練習を率先してやっていました」

 1980年代後半と言えば、まだ球数を投げ込んで肩肘を鍛えようという考えが主流だった時代だ。投げられるだけ投げるのが当たり前という風潮の中、桑田氏は動じることなく自分の意見を主張し、チームに新たな考え方を伝えていったという。

「当時は、とりあえず投げろ、という考え。桑田がノースローを始めて、僕も始めてみました。その他にも食事やトレーニングに関しても、彼は自分で考えてやっていましたね。どうやらプロで1年やってみて、このままじゃいけないって、いろいろ勉強したらしいんだけど、それを実践したのがすごい。新しいことを始めると、いろいろ言う人がいるけれど、彼は自分を貫き通した。本当にすごいと思います」

 現役時代、斎藤氏も桑田氏からトレーニング方法についてアドバイスをもらうこともあったそうだ。

「ベテランになってきた頃、ウエートトレーニングをしていたら『斎藤さん、いまさら機械でするよりも、自分の体重を使ってトレーニングした方がいいですよ』ってアドバイスをもらいました。僕は全然分からないから『あ、そうなんだ。ありがとう』って(笑)。

 あと、昔はこの距離を何秒で走ってこいっていうランニングメニューがあって、春キャンプの宮崎でよく300メートルトラックを走ったんですよ。それで、不思議なことに桑田には体内時計があるんでしょうね。言われた秒数でほぼ狂わずに戻ってくるペース配分ができる。だから『真澄、お前についていくぞ』って言うと、『はい、ついてきてください』って早くもなく遅くもなく、ちょうどいいペースで走ってくれる。もう、いつも桑田について走っていました(笑)。本当に何でもすごかったですね。抜けているものがありました」

守備が得意の桑田氏に斎藤氏も「僕も負けていないと思ってるんだけど(笑)」

 斎藤氏と桑田氏と言えば、守備が得意だったという共通点がある。ゴールデングラブ賞を斎藤氏は4回、桑田氏は8回獲得。実際どちらが上手かったのかと問われると、斎藤氏は悩む様子を見せながらも満面の笑みを浮かべた。

「いやぁ~、僕も負けていないと思ってるんだけど(笑)。でも、桑田の方がゴールデングラブをいっぱい持ってるんだよね。堀内(恒夫)さん、西本(聖)さんもゴールデングラブ賞を獲っていて、ジャイアンツの投手は守備も上手という傾向はあったかもしれませんね。もちろん、槙原さんみたいに下手な人もいたけど(笑)」

 守備は好きだったという斎藤氏は、リトルリーグでは捕手を経験。中学時代には投手と内野手を兼任していた。その経験が生きたのだろう。華麗な守備で、自らピンチを凌ぐ場面も多々あった。

「守備で自分を助けるんだって、内野ノックでもバント処理でも守備練習はよくしましたよ。得意だったから好きだったのかもしれないけど。ただ、コーチをしている時にも思ったんだけど、最近の投手は守備が下手ですね。田口(麗斗)なんかは上手ですけど。僕たちの頃はバントをされたら、ほとんどピッチャーが自分で捕りに行って処理していたけど、今はキャッチャーが捕りにいく。確かに山倉(和博)さんや有田(修三)さんは動かないキャッチャーでした(笑)。得意不得意もあるでしょうけど、もう少しピッチャーが積極性を見せてもいいような気がしますね」

 桑田氏はキャリア終盤の2007年、米パイレーツに入団。メジャーのマウンドを経験した。野茂英雄氏がドジャース入りしたのが1995年。この年、27試合に先発し18勝を挙げた斎藤氏は、現役当時にメジャー挑戦を考えたことはあったのだろうか。

「野茂が行くと言ってから、『あ、行けるんだ』と初めて思ったくらいですね。その時点で僕は30歳、もう全くメジャー挑戦なんて気はなかったけど、今の時代に現役だったら思ったのかな? バリバリでやっていたら行ってみても面白かったかも、というのはあるかもしれません。でも、現役時代は一切ない。選択肢としてなかったし、僕たちの時はメジャーと日本に大きなレベルの差があるような気もしましたし」

 斎藤氏はプロ2年目の1984年オフに日米野球に出場。前年のワールドシリーズを制したオリオールズを相手にマウンドに上がり、レベルの差を感じたという。

「自分が投げても差を感じたけど、槙原さんが平和台球場で(エディ・)マレーさんから右中間に場外ホームランを打たれたんですよ。その打球を見て、メジャーはすごい、レベルが違うって感じましたね。実際、随分と差はあったと思います。今はあまり感じなくなってきましたけどね。日本のピッチャーがある程度通用するのは分かってきた。だから、今年は筒香(嘉智)と秋山(翔吾)に頑張ってほしいですね。長く活躍できる野手は少ないですから」

 全盛期の斎藤氏がメジャーの門を叩いていたら……。サイドスローから繰り出されるストレート、カーブ、シンカーを武器に、並み居る強打者を抑えていたかもしれない。想像は広がるばかりだが、その姿を見てみたかったファンがいることだけは確かだろう。(佐藤直子 / Naoko Sato)

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