第8回 昭和史に残る討論会が映画になった 『三島由紀夫 vs 東大全共闘〜50年目の真実〜』

鈴木邦男(文筆家・元一水会顧問)の 右顧左眄 第8回 昭和史に残る討論会が映画になった 『三島由紀夫 vs 東大全共闘〜50年目の真実〜』

▲豊島圭介監督と。

貴重なフィルムをよく残していてくれた

50年といえば半世紀である。世紀で数えるととても長い時間に思える。実際、長い時間である。ルーフトップの読者のほとんどは生まれてない。親御さんの世代だって、もしかしたら、当時の記憶は定かでないという方たちも多いだろう。

連合赤軍が起こしたあさま山荘事件は、鉄球を建物にぶつけるシーンは幼心でも覚えているという人が多い。あの時はテレビの視聴率が89.8%を記録したというから、印象に残っているだろう。あれは1972年の事件だ。

この映画が題材にしている三島由紀夫と東大全共闘の討論会というのは、1969年5月13日。半世紀前。テレビ中継はなかったが、討論の様子はその後すぐに書籍になったから、社会的には記憶されている事件(事件じゃないが)と言っていいだろう。東大闘争がらみで社会的に記憶されているといえば、安田講堂の攻防戦がある。ヘリコプターや地上から安田講堂に激しく放水がなされ、催涙弾が撃たれた。安田講堂に立てこもった学生たちは、火炎ビンを投げつけた。これは、今度の映画に取り上げられた三島と東大全共闘の対決の4カ月前だ。

さっきから今度の映画と書いているが、『三島由紀夫 vs 東大全共闘〜50年目の真実〜』のことだ。テレビは中継こそなかったが、ちゃんと撮影には行ったようで、それが50年目に映画として実を結んだわけだ。TBSはよく保管していたものだ。昭和史を語るうえでの貴重な資料だ。賞賛に値すると思う。

芥正彦さんの存在が対話を成立させた

映像はTBSに残っていたが、それを映画作品にしたのは、豊島圭介という若い監督だ。1971年生まれ。この討論会の時にはまだこの世に影も形ない。豊島監督とは、配給会社GAGAのオフィスで対談することができた。経歴を見ると、今まで撮った映画は『怪談新耳袋』とか僕の知らないものばかりだ。少なくとも政治的な匂いのするタイトルの映画は並んでない。そんな人がなぜ、と思って聞いてみたら、「普段はバラエティとか撮っているのに、プロデューサーが声をかけてくれたので、こんなチャンスはそうないと思って飛びついた」という。

この映画が成立したのは、そしてこの討論会が成立したのは、なんと言っても三島由紀夫と芥正彦さんの存在だと思う。

まず三島由紀夫。討論態度がとても立派だ。相手が学生だからといってバカにせず、教えてやろうとか、やり込めようとかいう態度は微塵も見せない。それは言葉遣いにも表れる。過度な敬語は使わず、かといってぞんざいな口利きにもならない。相手の言うことをきちんと聞いて答える。時には、趣旨のわからない学生の発言がある。多分、この学生は自分でも何を言ってるかよくわかってないんじゃないかな。当時、そういう人がけっこういた。使う単語はマルクスとかサルトルとかの用語なのだが、自分でわかってないので、相手に伝わらない。でも三島は、相手の言わんとするところを咀嚼して、そこに含まれた問題点を抽出して答える。

監督が映画には使わなかったシーンをいくつか教えてくれたが、その中で平凡パンチの編集者で三島番だった椎根和(しいねやまと)さんの言葉を紹介してくれた。

「三島さんはもっとわかりやすい暴力を受けると思っていたのではないか。ああいう知的な攻防戦になるとは予想してなかっただろう」

椎根さんには『平凡パンチの三島由紀夫』という名著がある。三島の日常生活の細部を描いた出色の本だ。

この討論会が暴力沙汰にならず、知的な対話に終始した要因は二つあると思う。一つは、三島の真摯な態度だ。学生に丁寧に向き合って、議論しようという気持ちが見えたから、全共闘側の論者にもそれが伝わったのではないか。二つ目は、芥正彦さんの存在だ。この人は全共闘随一の論客と言われたと映画のパンフレットに書いてあったが、映画を見ていて本当にそうだと思った。三島と言語が通じている。討論が噛み合っている。

芥さんとは、数年前に話をしたことがある。この当時から前衛的な芝居をやっていて、半世紀経った今も続けている。この原稿の構成をしてくれているレーニンさん(椎野礼仁)は慶応の学生時代に演劇部に所属していたそうだが、当時から「劇団駒場」の芥正彦は知られた存在だったという。この討論会の1年前の駒場祭の時に、劇団駒場の公演を見たそうだ。芥さんが出てきて、自分の体に色とりどりの絵の具を塗りたくったり、赤ちゃんを振り回して、その子がギャーギャー泣いていたのを覚えているという。

実はこの討論会の時にも、芥さんは赤ちゃんを肩車して出てくる。セーターに金太郎のように伸ばした髪の毛。これは当時、ビートルズが流行らしたマッシュルームカットというやつかな。口の周りにはあごひげ、口ひげ。今だったら「三島先生の前にそんな姿で登場するとはなんだ!」とネットで叩かれるだろう。

でも三島は、そんなことを咎めるでもなく、きちんと討論に応じている。三島も黒い半袖ポロシャツではあったが。面白いのは煙草のやりとり。この映画で唯一時代を感じさせるのは、壇上の三島も芥正彦も、煙草をスパスパ吸っていることだ。吸いながら討論している。2人とも両切りのピースのようで、三島は2箱持ってきて、芥さんは4箱持ってきていて、途中で煙草を切らした三島に芥が1箱を献上。「お互いに3箱ずつ吸ったな」というシーンも出てくる。

この時点で自分の最期を予言しているのか?

この討論会で最も有名になったセリフは、最後のほうで三島が言った「君たちが一言、天皇と言ってくれたら、僕は君たちと共闘する」だが、僕がもっとびっくりした発言が、ちゃんと映画に残されていた。

「私も行動を起こす時には、非合法でやるしかない。そして自決でもして死ぬ」

この時点ですでにこういう発言をしていたんだ。実際に三島が行動を起こして自決したのは1年半後だ。そういう事態をどこまで想定していたのか、まだ想定していなかったのか。非常に気になった。また、研究テーマができた。

構成:椎野礼仁(書籍編集者)

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