焼肉屋から解説者へ転身 元ロッテ藤田宗一氏を野球界に引き戻した2人の言葉

ロッテ・巨人・ソフトバンクで通算600試合に登板した藤田宗一氏【写真:荒川祐史】

日本一と世界一を経験した元左腕、2012年のBC群馬を最後に現役引退

 2005年にはロッテで日本一、2006年には日本代表メンバーとして第1回WBCで世界一を経験した藤田宗一氏。173センチと小柄ながら、球威のあるストレートと鋭いスライダーでコーナーを突き、打者を翻弄した元左腕だ。1997年ドラフト3位でロッテ入りすると、ルーキーイヤーから5年連続で50試合以上登板を記録。14年の現役生活で通算600試合に登板した“鉄人”でもある。

 だが、第1回WBC優勝メンバーとなった翌年、シーズン終了後に戦力外通告を受け、巨人に移籍。巨人で3シーズンを過ごすと再び戦力外。2011年はソフトバンクで育成から支配下登録され、1シーズン戦った。

 2012年、藤田氏が新天地としたのは、独立リーグだった。BCリーグの群馬に選手兼投手コーチ補佐として入団。もちろん、NPBへの復帰を目指していたが、同時に第2の人生についても考え、行動し始めたという。

「ソフトバンクを自由契約になって、他球団の方から『獲得には興味があるけど選手枠のことがある。とりあえずトレード期間中は投げていてほしい』と言われたんです。そこにたまたま群馬から話があってお世話になりました。でも、本当に獲得したければ、そのまま契約するじゃないですか。だから、群馬で投げながら、次のことも考えなきゃいけないと思っていたところで、肉の勉強をしたらいいと肉の卸業者を紹介されたんです」

 知人に紹介された群馬にある肉の卸業者で藤田氏が磨いたのは、肉の知識と包丁捌きだ。ある日は投手としてマウンドに立ち、ある日は肉捌きの修行。週2回、約半年にわたり新たな技術を身に付けた。

「そこは豚が専門だったんですけど、豚が1頭まるごと吊されているんですよ。そこで『これがロース』『これがヒレ』って説明してもらって、肉の磨き方も教えてもらいました。1頭の豚を部位ごとに切り分けた後、『これはモモです。何グラムに切って下さい』『これは何グラムで』って言われて、目分量で切るんですよ。『ロースをとんかつ用に100グラムに切って下さい』って言われても、初めは切れません。80グラムとかに切って怒られたり……(笑)。でも、2か月したら、ある程度は切れるようになりますね。今でも100グラムと言われれば、95~105グラムの間では切れます」

 貴重な技術を身に付けたが、「勉強しておいて損はない。いつか役立つだろう」程度に考えていたという。それというのも、古巣ロッテでコーチをしようと考えていたからだ。その夏、引退を決意し、当時のロッテ西村徳文監督(現オリックス監督)に挨拶に行くと「ウチに帰ってこい。話をしておくから」とコーチ就任の打診。だが、「西さんがその年に退任して、話がなくなっちゃったんです(笑)」。そこで野球界を離れ、包丁を持つ道を選んだ。

接客を学ぶためにラーメン屋で修行「初めは接客は向いていないと思いました」

 藤田氏と言えば、現役時代はメディアの取材は極力受けないタイプだった。言葉で伝えるよりも、マウンドで結果を出す方が先決だと考えていたからだ。でも、焼き肉屋を開くとなれば接客もしなければならない。西濃運輸での社会人時代に荷受けをすることはあったが、飲食業界での接客経験はゼロだった。そこで出店する場所を選ぶ間はラーメン屋で働き、接客の修行をした。「初めは接客は向いていないと思いました」と笑うが、5年続いたのだから、まんざらでもなかったのかもしれない。

 赤坂に焼き肉店をオープンさせたが、すぐに軌道に乗ったわけではない。野球で何度も辛い思いはしたが、また別の大変さがあった。

「寝る時間がなかったですね。お客さんに付き合って飲んで始発で帰ったり、店で寝てから帰っても、15時にはまた店に出る。そこから仕込みをするんですけど、仕込みもまた大変。野球は決まった年俸があるけど、店を持つとお客さんに来てもらわないと家賃も払えなくなるわけです。そんな中、仕込む量も間違えないようにしないといけない。開店してから3か月は毎月、10キロ、15キロくらいの肉を捨ててました。食べられるものはバイトの子に持って帰ってもらいましたけど、本当にもったいなかったです。でも、それが勉強になって、半年後には余った肉を生かせるメニューを考えたり、サービスで出したり、捨てないようになりました」

 日頃からよく来店してくれた1人が、第1回WBCで投手コーチを務めた鹿取義隆氏だった。ともに戦い、世界一を掴んだ“師弟”関係は、引退後も続いていた。第2の人生を歩み始めて3年目のある日、来店した鹿取氏にこう言われたという。

「鹿取さんに呼ばれて『お前はこんなところで料理をしている場合じゃない。店をやりたいなら誰かに任せて、グラウンドに行け!』って怒られたんです。『グラウンドに行かないと忘れられてしまう』って」

 そして同じ頃、別の人物からも野球界に戻るよう言われていた。それが、現在はロッテでスカウトを務める榎康弘氏だ。元ロッテの投手で広報を務めた榎氏は、藤田氏と同い年で仲のいい友人でもある。第1回WBCへの参加を渋った藤田氏を、なかば強制的に参加させたのも、当時広報だった榎氏だった。

「榎にも言われていたんです。『お前、解説の仕事とかしないと帰ってこれないぞ』って。焼き肉屋をしながらも、やっぱりいつかユニホームを着たい気持ちはありました。若い子に野球を教えたいな、と」

第1回WBCで日本代表として世界一を経験した藤田宗一氏【写真:荒川祐史】

小中学生に野球を教える今、藤田氏が抱く新たな目標とは

 この2人の言葉が後押しとなり、2018年に焼き肉屋から解説者に“転身”。今では小中学生を対象とする野球塾でコーチも務めている。ここで子どもたちに伝えているのは、体の芯をしっかり作ることだ。

「今の選手は体が大きくても、すぐ怪我をする。それは芯がないからです。僕はこの体で14年間プロでやってきた。それはやっぱり体の芯があったからだと思うんです。子どもたちにはまず、体を大きくしなさいって言ってます。お父さんは野球をしていなくても速く投げられるでしょ。それは体が大きいから。だから、まずはお母さんが作ってくれたご飯を残さず食べようねって」

 将来的にはNPB球団でユニホームを着たいと願っているが、今は子どもたちに教えることに夢中だ。

「今年も独立リーグから監督のオファーもあったんですけど、今は子どもたちを見ていた方が楽しいなって。上手くなってくるのが、目に見えて分かるんですよ。急に上手くなった子に『練習してるのか?』って聞くと『ハイ!』ってうれしそうに言うんですよね。それがうれしいですし、楽しいです。プロ球団でコーチをするチャンスがあればいいなと思ってますけど、なかったらなかったで。それよりもいつか、教えている子どもたちがプロ野球選手になってくれたらうれしいですね。藤田に教えてもらってプロになりましたっていう子が出たら、そっちの方が逆にうれしいかもしれません」

 野球界に戻り、新たな夢が生まれたのも、あの2人のおかげかもしれない。

「2人に言われていなかったら、ずっと飲食やっていたと思います。もう1店舗くらい出していたかも。鹿取さんと榎の言葉は大きかったですね」

 自身がユニホームを着るのが先か、教え子がプロになるのが先か。藤田氏は新たな野球人生を歩み続けている。(佐藤直子 / Naoko Sato)

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