金正恩最大のタブー「母は在日朝鮮人」|李英和 「重大な実験」を繰り返すなど挑発行動を活発化させる北朝鮮。実は国内で今もなお金正恩委員長の神格化作業が足踏みを続けていることはあまり知られていない。なぜなのか? そこには金正恩の生母にまつわる「不都合な真実」という決して乗り越えられない絶壁がある。国家機密にまで指定された金正恩体制の「アキレス腱」にして最大のタブー!その真実に迫る。  

金正恩が求める「体制保証」とは何か

北朝鮮の金正恩政権は一見したところ、「内外に敵なし」の安定ぶりを誇る。金正日急死(2011年12月)の翌年に玉座に就いてから執権8年目に入る。その間、まだ30歳代の若さながら、指導者としての権力基盤を着実に固めてきた。

国内政治では、潜在的な政敵である叔父の張成沢を処刑(2013年12月)、返す刀で異母兄の金正男を暗殺した(2017年2月)。そして、2018年は大胆にも「非核化」(核放棄)を掲げ、韓国、中国、アメリカを相手に首脳会談の外交攻勢を矢継ぎ早に仕掛ける。

全ては体制の生き残りを懸けて──。実際、金正恩は核放棄の見返りに「体制保証」なるものを周辺国に求める。この場合の「体制保証」とは、外敵が武力で金正恩体制を転覆しようとする危険を取り除くことだ。具体的には、アメリカとの「平和協定」の締結である。核放棄を餌に上手く立ち回れば、最大の外敵から体制保証を手に入れられるだろう。

延命装置は「系統的な洗脳(思想教育)」

ところで、金正恩がアメリカを相手に保証を求める「体制」とは何なのか。ソースティン・ヴェブレン(1857~1929)が喝破したように、詰まるところ、体制とは当該社会で支配的な価値観のことである。支配的な「感情」と言い換えてもよい。

そうであれば、これは部外者が保証しきれる性質のものではない。支配者が不断に国民へ押し付け、国民が進んで感化されてこそ、その価値観(感情)が持続できる。

北朝鮮の場合、守るべき体制は社会主義でも一党独裁でもない。父子権力世襲の独裁体制、つまりは封建王朝さながらの時代錯誤な身分制度である。この価値観の延命装置は、金日成一族の神格化を中核とする系統的な洗脳(思想教育)である。体制が生き残るには、「非核化」はできても、「非神格化」はできない。

挫折した金正恩の神格化作業

ところが、この体制保証の「本丸」の入り口で、金正恩政権は大きく躓く。核ミサイルを作っては捨てる「離れ業」を演じられるほど、金正恩政権は盤石のはずだ。だが、執権8年目になる現在でも、金正恩の神格化作業は足踏みする。

そこには、乗り越えられない絶壁がある。金正恩の生母にまつわる「不都合な真実」がそれだ。言い換えれば、北朝鮮の体制保証の「アキレス腱」である。

本稿では、この神格化作業の挫折を点検する。「不都合な真実」の正体を前もって示せば、次の5点である。

1実母の高英姫が在日朝鮮人という「下層身分」に属すること

2「喜び組」の踊り子だったこと

3金正日の「正妻」ではなかったこと

4高英姫の父親が旧日本軍の協力者だったこと

5高英姫の実妹がアメリカに亡命した「脱北者」であること――。

3階層51部類された北朝鮮の「出身成分表」(身分表)

順番に見よう。北朝鮮は、社会主義(無階級)社会とは名ばかり、実際には牢固な身分制社会だ。3階層51部類の「出身成分表」(身分表)で細かく分類され、徹底的に管理統制されている。

国民を3世代前まで遡り、6親等まで調べ上げ、秘密警察が作成して運用する。あまりにも複雑過ぎて、本人ですら自身の所属階層を正確には分からない。

3階層は上から「核心階層」(25%)、「動揺階層」(25%)、「敵対階層」(50%)の順となる。核心階層は金日成が率いた抗日遊撃隊の遺家族を頂点とする反日運動の愛国烈士の遺家族や労働者・貧農の遺家族など。動揺階層は民族資本家、手工業者、知識人・技術者や自営農民の遺家族など。敵対階層は富農や地主、親日・親米分子の遺家族など。

この身分表に基づき、国民は進学や就職、労働党への入党や職場での昇進など、社会生活全般が決まる。北朝鮮当局は身分制度の存在を公式には否定する。

核心階層は「トマト」、動揺階層は「リンゴ」、敵対階層は「梨」

そこで、国民は果物の名前に譬えて「赤い身分制度」を言い表す。核心階層は皮だけでなく実まで赤い「トマト」、動揺階層は皮が赤いけれど実は白い「リンゴ」、敵対階層は皮も実も白い「梨」だ。

戦後に北朝鮮へ渡った在日朝鮮人帰国者は、大半が「梨」に分類された。よほど運が良くても「リンゴ」どまりだ。

北朝鮮では、最高指導者はもちろん、核心幹部は「トマト」ばかりである。金正日の後継者である金正恩も当然、「トマト」でなければならない。そのためには、金正日の配偶者も「トマト」であることが必須条件となる。実際、金正日の正妻と2番目の妻(長男=金正男の実母)は核心階層の出身だった。

ところが、3番目の妻=高英姫は身分が異なる。北朝鮮の流儀で言えば、金正日と高英姫の間に生まれた金正恩は異なる身分のハイブリッド(交雑種)ということになる。「リンゴ問題」 「梨疑惑」である。

金正恩の母方の祖父は日本軍協力者

身分制ではない社会に暮らす者には、たいした問題ではない。むしろ「シンデレラ物語」風の美談にもなり得る話である。だが、北朝鮮では事情がまるで異なる。

これに加えて、高英姫の場合、実父(高沢)が旧日本陸軍管理下で軍服を作る軍需工場に勤務した経歴を持つ。大阪市内にあった「広田裁縫所」で、朝鮮人女工を手配・監督する仕事をしていた。金正恩の母方の祖父が「日本軍協力者」では、動揺階層どころか敵対階層の疑いが生じる。

そのせいもあって、「偉大なる首領様」の金日成は生前、高英姫を正式な嫁とは決して認めず、その息子の金正恩も正式な孫と認めなかった。おかげで、高英姫とその子供たちは、首都・平壌ではなく地方都市の元山で、金日成の目を避けながらひっそりと暮らした。高英姫が金正日と同居を始めてから金日成が死去するまでの約20年間(1976~94年)、高英姫は公の場に全く姿を見せられなかった。

金正恩の叔母=高英淑は家族揃ってアメリカに亡命

さらに、高英姫の実妹、つまり金正恩の叔母=高英淑が家族揃ってアメリカに亡命した(1998年)。海外勤務中の公金横領疑惑が発覚して、身の危険を覚えたせいである。ちなみに、最高指導者の金正恩が最初に下した命令が「脱北者の即時銃殺」と「脱北者家族の流刑」だった。「天に唾する」のに等しいが、それだけに脱北者の叔母の存在は不都合きわまりない事実である。

こうしてみると、高英姫の神格化作業自体、もともと無理のあることが分かる。それでも強行突破を図るが、案の定、あえなく頓挫する。

身分制度に巣食う魔物

金正恩が後継者に内定したのは2009年1月のことだった。父親の金正日が前年に脳卒中で倒れ、一命は取り留めたものの、後遺症で認知症を発症して執務困難に陥る。その緊急避難措置として、北朝鮮は張成沢を中心とする実質的な集団指導体制に入り、同時に後継者選びを急いだ。紆余曲折の末、金正日の息子3人のうち、長男でも次男でもなく、当時30歳にも届かない男坊の金正恩が後継者に内定した。

権力世襲二代目の金正日の場合には、「能力本位で後継者を選んだ結果、偶然にも金日成の息子の金正日だった」と言い張った。社会主義の理念に反する権力世襲への批判を逃れる苦肉の策である。だが、若輩の金正恩には労働党や人民軍で修行を積んだ経験も実績もない。とても「能力本位」の詭弁は通用しない。金正恩の世襲を正当化するには、「革命の血筋」(白頭血統)を前面に押し出すしか方法がなかった。その意味では、血統だけに頼って誕生した金正恩政権こそが、純粋な世襲政権の名に相応しい。

金正日の神格化は、父親=金日成と母親=金正淑の神格化を通して完成済みだ。残るは金正日の「妻」=高英姫の神格化作業だけである。ところが、この作業が難関中の難関だった。身分制度の価値観に深く巣食う「魔物」が潜んでいた。

大阪で広まった「玉の輿」の噂

金正日が高英姫と「通い婚」で同居していたことは、高位幹部の間ではよく知られた事実だ。高英姫が大阪・鶴橋生まれなので、在日朝鮮人帰国者の間でも「玉の輿」の噂が広まった。それも決して口外できない「公然の秘密」だった。

そこで金正恩は苦肉の策をひねり出す。高英姫の経歴を隠し、偽名を使って神格化作業を進める奇策を弄することにした。その集大成が、住民教育用に制作された『偉大なる先軍朝鮮のお母様』と題された記録映画(約85分)だ。金正恩が玉座に就いて間もない2012年5月、人民軍と労働党の限られた高位幹部を対象に同記録映画の「試写会」が催された。

筆者はこの試写会実施を同年5月中旬に知り、北朝鮮内の協力者を通じて6月初旬に同映像の完全版を密かに入手した。それは同年6月30日に、TBS「報道特集」が「世界初公開!金正恩第一書記の母親の動画と肉声」と銘打って放送された。

筆者の得た内部情報によると、同記録映画は本来なら、同年12月の金正日の一周忌に合わせ、北朝鮮国内で大々的に鳴り物入りの一般公開をする手はずになっていた。その前に、筆者が勝手に全世界に向けて「封切り」した格好になった。その後、今日に至るまで、同記録映画は北朝鮮国内で未公開のままである。

「この映画が表に出れば、失うものばかりで得るものがない」

そこに2017年1月、この「封切り中止」の内幕を示す興味深い証言が飛び出した。韓国に亡命した太永浩元北朝鮮駐英公使によれば、同記録映画の試写会に参加した労働党幹部たちが一般公開に猛反対した。「この映画が表に出れば、失うものばかりで得るものがない」とまで酷評した(「正恩氏母の映画、お蔵入り?」、1月18日、朝日新聞)。記事中では理由が明かされていないが、上述の「不都合な真実」のせいであることは疑いない。

主人公の高英姫は終始一貫「無名」、金正日の急死

筆者が入手した未公開映像を手掛かりに、高英姫神格化作業の秘密をさらに読み解く。

まずは映画制作の背景から。記録映画の巻末には、「(朝鮮労働)党中央委員会、映画文献編集社」と制作者が記されている。制作日は「主体100」(2011年)である。したがって、金正日(2011年12月死亡)の存命中、その裁可を得て制作された計算になる。

映像には、いまは亡き高英姫(2004年にパリで病死)の動画と肉声がふんだんに盛り込まれている。どれも初公開である。ただし、主人公の高英姫は終始一貫「無名」のままだ。本編中、実名と経歴はおろか、偽名すら登場しない。その代わりに、「尊敬するお母様」とか「朝鮮のお母様」 「偉大なお母様」といった別称ばかりが繰り返される。いかにも不自然である。これでは主人公に親近感を抱きようもない。宣伝効果が著しく落ちる作りだ。

そうなった理由は、おそらく金正日の「急死」にある。映画作りを命じたのは金正日だ。しかし、高英姫の実名と経歴をどう扱うか、このきわめて敏感な問題で、明確な方針を下さないまま他界した。

金正恩の後見人勢力が「国家の最高機密」に指定

筆者の知るところでは、金正日急死の直後、金正恩の後見人勢力が、高英姫の実名と経歴を国家の「最高機密」に指定した。これを破る者を「厳罰に処する」との方針が秘密裏に打ち出された。このような経緯で、記録映画から高英姫の名前と経歴が蒸発した。

労働党は大いに苦悶した。主人公が「名無し」では宣伝効果が落ちるうえに、不要な憶測を呼んで流言飛語が溢れる。その副作用を恐れ、映画本編とは別に小細工を弄した。筆者が映像提供者から得た証言では、「試写会」の冒頭に司会者が口頭で、映画の主人公を「李恩実」と偽名で紹介した。

あえて「李恩実」の偽名を口頭で流布させる理由は明らかである。「金正恩」の名前の由来を示すことで、革命血統による権力世襲の正統性を強調するためだった。

金正日から「正」の一文字、李恩実から「恩」の一文字を取り、「正恩」と名付けられた。ちょうど父親の金正日の名前が、金日成の「日」と金正淑の「正」を拝借したのと同じ流儀である。

したがって、映画制作に合わせて「李恩実」の偽名が捏造されたわけではなさそうだ。金正日との同居を機に、高英姫が自身の正体を隠すために使った「通称名」だと思われる。

「肝心の金正恩がほとんど登場せず、幼少期の静止画像が数枚だけ」の謎

記録映画では、高英姫の経歴には全く触れていない。高英姫の人物像に関しては、「金正日への忠誠と献身」 「素朴で謙虚な母親」との抽象的表現で押し通した。

映画は高英姫50歳の誕生祝賀会の場面で最高潮を迎える。2002年6月26日、高英姫が金正日に捧げる自作の詩を朗読する姿と肉声が滔々と流れる。「喜びも栄光、悲しみも栄光、試練も栄光と考えて、将軍様とともに過ごしてきた30年の歳月を顧みながら──」。

その高英姫が夫の金正日と連れだって、金正日の実母=金正淑の革命史跡地を訪問する様子が映し出される(98年3月)。そこでは、高英姫が「康盤石(金日成の生母)と金正淑の偉大なお母様を模範とした」との解説が付く。要するに、高英姫が二人の衣鉢を継ぐ3代目の「偉大なお母様」だと主張する。

偉大な将軍様と偉大なお母様の間に生まれた金正恩こそが「偉大な領導者」である──。そう刻印する仕掛けである。ところが、記録映画には肝心の金正恩がほとんど登場しない。幼少期の静止画像がわずかに数枚あるだけだ。

有力な後継候補だった高英姫の長男=金正哲

その理由は2つ考えられる。

ひとつは、動画を撮り溜めた時期は、金正恩がスイス留学中(1996~2002年)だったこと。金正恩の帰国後、高英姫は乳がんが再発、ほどなく治療のためにフランスに出国していた。

もうひとつの理由は、動画の撮影時には、高英姫の次男=金正恩ではなく、長男=金正哲が有力な後継候補に擬せられていたこと。したがって、長男の映像を撮り溜めたが、編集段階ではもはや使えなくなった。後継者が長男から次男の金正恩に入れ替わったせいである。実際、本編中に長男の金正哲は影も形もない。まるで金正恩が「ひとり息子」と思わせる作りである。

1997年に禁じられた後継者論議

実は、高英姫の神格化作業は前期と後期の2段階に分かれる。

前期は、1998年から高英姫がパリで客死する2004年8月までの間である。金正日が水面下で徐々に過熱する後継論に危機感を抱き、1997年には後継者論議を禁じた。

それにもかかわらず、李明秀大将を中心とする軍部勢力が、高英姫の長男を後継候補に担ごうと画策した。李明秀大将は、当時「人民軍の門番」と異名を取る軍の大実力者だった。李明秀は現在、人民軍序列第一位の元老として君臨する。

その軍部は、高英姫を「人民軍の母」と称して神格化する作業を活発に繰り広げた。金正日の実妹夫婦(金慶喜と張成沢)が推す有力な後継候補、金正日の長男=金正男に対抗する動きだった。記録映画で使われた高英姫映像の大半がこの時期に撮り溜めされたので、軍部隊の視察場面が圧倒的に多い。

金正男が軍部を嫌ったので、軍部も金正男を嫌った。前期の高英姫神格化作業は、長男の金正哲を後継者に推し上げる動きだった。次男の金正恩は1998年当時、まだ10代の少年で、後継候補としては「規格外」だった。この軍部中心の動きは、金正男が成田空港で入管難民法違反の容疑で逮捕・拘束される2001年に絶頂期を迎える。

後継者の座をほぼ手中にしていた金正男が、なぜ日本で逮捕されたのか?

金正男は、それまで党と軍で順調に後継者としての修行を重ねてきた。そうして2000年、史上初の南北首脳会談(金正日と金大中)の際、北朝鮮側の密使として会談を成功に導く大役を果たした。その功績で、金正男は後継者の座をほぼ手中にしていた。これに高英姫と軍部が危機感を募らせた。

金正男が後継者に決まれば、高英姫の息子2人は邪魔者となる。不要な脇枝として「伐採」されかねない。そこで、高英姫は金正男を後継レースから追い落とす「禁じ手」の大博打を打つ。

金正男が夫人と息子を同伴して偽造旅券で日本(東京ディズニーランド観光)に出掛ける機を捉え、日本当局に「事前通報」した。そうとはいえ、苦し紛れの作戦なので、成功の確率はゼロに近かった。

金正男が偽造旅券で海外へ頻繁に出向く事実は、各国の情報機関の間では周知の事実だった。情報機関の要員は金正男を尾行するだけで、決して逮捕しなかった。好きに泳がせておくほうが情報収集に役立つからである。金正男自身も、その辺りの事情を十分に承知のうえで行動していた。

それでも、高英姫は「何かの間違い」で日本当局が金正男を逮捕する可能性に一縷の望みを託した。わが子の行く末を案じる母の想いが天に通じたのか、実際に「何かの間違い」が起きる。日本当局が成田空港内で金正男一行を逮捕したのである。事件発生当時、筆者が密かに知り得た内幕はおよそ次のようだった。

尾行要員たちは眼前で繰り広げられる光景に驚き慌て、一斉に空港内のトイレに駆け込み、急いで携帯電話の電源を入れて本部に緊急連絡した。各国の情報機関は色をなして日本政府に真意を問い詰めた。

たとえ事情がどうであれ、この逮捕劇で金正男の経歴に大きな傷が付いた。こうして、高英姫と軍部の思惑どおり、後継者選びは「振り出し」に戻った。高英姫の狙いは、自分の息子二人が成人するまで、後継者レースを延期させることだった。

父親=金正日の不甲斐なさを激しくなじった金正男

金正男は自身の逮捕劇の黒幕を瞬時に悟った。筆者の知るところでは、強制送還先の北京に着くや、金正日に電話を入れ、妻と軍部による非行を止められない父親の不甲斐なさを激しくなじった。それ以来、身の危険を覚えた金正男は平壌に戻らず、中国当局の庇護下で亡命生活を送った。

この前代未聞の逮捕劇が北朝鮮の未来を変えた。これを機に、高英姫の神格化作業がさらに進むが、2004年に肝心の高英姫が病死して頓挫した。これが再始動するのは、金正日が脳卒中で倒れる2008年以降のことである。

だが、再始動の時には高英姫が他界していた。同時に、後継候補が長男ではなく、次男の金正恩に入れ替わっていた。そのせいで、高英姫と金正恩のツー・ショット、それに金正日を加えたスリー・ショットの動画を撮り溜める機会が失われた。使用可能な動画や写真が制限された結果、金正恩の映像が幼少期の写真数枚だけに絞られた。

苦心惨憺の末に完成させた記録映画は、上述したように高位幹部向けの試写会で酷評を浴びる。それでも金正恩は、実母の神格化作業を簡単には諦めなかった。

試写会の直後には、平壌郊外に広大な陵墓を造成して参拝道まで付けた。まるで「革命史跡」扱いである。だが実際には、ごく少数の幹部が試験的に参拝しただけに終わった。人物像も不明な陵墓では、とても大々的な参拝行事は強行できない。高位幹部が記録映画を酷評したのと同じく、「失うものばかり」である。

「片肺飛行」の金正恩

権力世襲の金正恩政権は、父親の神格化だけで、母親の神格化作業は動かない。根本的な欠陥のせいで、本格的な再始動は今後も見込めない。おかげで、金正恩政権の正統性は推力不足の「片肺飛行」である。

体制保証の動力源である「革命血統」──。金正恩はその推力不足を別の価値観で補うつもりのようだ。経済改革による経済成長の実現、つまり消費文化の導入がそれである。そのための呼び水が「非核化」である。

経済の失政が体制の危機に直結

市場経済の発展は、共産党の一党独裁と両立できる。それは中国とベトナムの事例が証明する。だが、「赤い身分制度」に基づく世襲独裁と共生共存が可能かどうかは怪しい。

身分制支配の価値観が強固であれば、経済の混乱も体制の致命傷にはならない。先代の金正日政権下、経済失政による人災で、国民の「10人に1人」が犠牲になる大飢饉(1993~99年)が起きた。それでも「廃位」の声はわき上がらなかった。だが、金正恩政権では話が違ってくる。

金正恩は体制維持の支柱に新たな価値観「経済的な豊かさ」を据えようと図る。神格化不足による苦し紛れの選択だが、これでは経済の失政が体制の危機に直結しかねない。金正恩政権は、墜落の危険を孕んだ「片肺飛行」なのである。

著者略歴

李英和

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