内田伯さん逝く

 その夏の朝、彼は家族の一人と口論をしたまま家を出て、動員先の工場に向かったのだという。仲直りはできないままになってしまった。〈自宅にいた家族のうち、父の遺体の一部を除き、他の遺体は今も見つかっていない〉-1999年に掲載された「私の被爆ノート」にある▲6日に亡くなった「長崎の証言の会」代表委員で被爆者の内田伯さんは、原爆で父親と幼いきょうだい3人、叔母の5人を一度に奪われた▲ちょうど10年前のきょう去った作家の井上ひさし氏は「被爆したのちも生きる」ことを〈人類史上最悪の暴力とまともに向き合い〉〈愛する者すべてを一瞬になくす底なしの喪失感〉と〈生き残ってしまった自責の念〉が覆う絶望の中を生き抜くこと-と記している▲内田さんも、紛れもなくそんな一人だった。無残に焼き尽くされた「生活」と「日常」の痕跡を探し、犠牲者たちが「生きて」そこに「居た」ことを「墓標を立てる思い」でライフワークの復元地図に刻んだ▲長崎の被爆者運動に大きな足跡を遺した人は、ウイルス禍の時節もあり、ごく少数の近親者だけに見送られて旅立った▲「じゃあ、って小さく手を振ってくれてるみたいで、何だか内田さんっぽいって思うんです」-。控えめな人柄をよく知る地元局の記者が静かに話す。(智)


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