メジャー通算1登板の元ヤンキース・マーソネックが学んだこと

2004年7月11日(現地時間)、ヤンキースのサム・マーソネックはメジャーデビュー戦のマウンドに立ち、1回1/3を無失点に抑えて試合を締めくくった。1996年のドラフトでレンジャーズから1巡目(全体24位)で指名された元有望株が子供の頃からの夢を叶えた瞬間だったが、残念ながらこれがメジャーでの唯一の登板となった。自身が思い描いていたような順風満帆のキャリアを過ごすことができなかったマーソネックは、自身の経験から何を学んだのだろうか。

「幼いときからベストの投手になりたいと思っていた。12歳のときからノーラン・ライアンの奪三振記録を破りたいと思っていた。僕は高校生のなかでトップクラスの投手の1人だったからそのチャンスはあると思っていたんだ」と子供の頃を振り返ったマーソネックは、ドラフト1巡目指名を受けてレンジャーズに入団。しかし、ルーキー級で防御率5点台に終わるなど、理想とは異なるキャリアを強いられ、酒の力を借りて現実から目を背けるようになっていった。

レンジャーズも「元ドラ1」の育成を諦めたように見られていたが、そんなマーソネックに救いの手を差し伸べたのがヤンキースだった。「ヤンキースは多くの問題児を復活させた実績があったから新天地でプレイするのが楽しみだった」とマーソネック。移籍後はリリーフに転向してAAA級のオールスター・ゲームにも選出され、着実にメジャー昇格へ近付いていた。ただし、飲酒運転で3度の逮捕歴がありながらも飲酒を止めようとはしなかった。

そして、2004年7月、ついにメジャー昇格の日がやってきた。AAA級のバッキー・デント監督に呼び出されたマーソネックは「トレードされたのかと思った」と当時を振り返ったが、そこで知らされたのはメジャー昇格の吉報だった。点差が開いた試合で守護神マリアーノ・リベラに代わって試合の最後を締めくくる役割を与えられたマーソネックは、メジャーデビュー戦で1回1/3を無失点に抑える順調なスタートを切った。しかし、翌日からオールスター・ブレイクに突入したことがマーソネックのキャリアを暗転させてしまう。

当初はオールスター・ブレイク期間中もニューヨークに留まることを望んでいたマーソネックだが、チームメイトが各地へ散っていくのを見てタンパの自宅へ戻ることを決めた。しかし、兄弟や友人と釣りや飲み会をして休暇を満喫していたマーソネックは、ウェイクボードで遊んでいた際に、自力で歩けないほどの重傷を膝に負ってしまう。このとき、ブライアン・キャッシュマンGMに対して負傷した本当の理由を告げなかったことを今でも後悔しているという。

手術をせず、2004年シーズン中の戦列復帰を目指したマーソネックだが、マイナーの試合では登板したものの、メジャー復帰は果たせなかった。翌2005年はAAA級で防御率6点台に終わり、メジャー昇格の機会はなし。そして、その年のオフ、マーソネックはチームメイトのアンディ・フィリップスとともにドミニカ共和国へ足を運び、野球以外に何もない子供たちが必死に、そして楽しそうに野球をしている姿を目にする。自分の考えが甘かったことを痛感したマーソネックは、この日を境に飲酒を止めた。

2006年はカブスとマイナー契約を結んだが、肩の故障により全休。2007年は独立リーグでプレイし、2008年はナショナルズとマイナー契約を結んだが、キャンプ最終日に解雇され、現役引退を決めた。そして、引退後は複数の自動車店のオーナーを務めながら、野球の指導者として活躍している。指導の際には、自身がプロ野球選手として得た経験(良い経験だけでなく悪い経験も)が活きているという。「自分が犯した間違いや後悔が、今の自分の燃料になっているんだよ」とマーソネックは語った。

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