故・木村拓也さんの“緊急捕手” 元巨人後輩が明かす舞台裏「気が付いたらもう…」

今季も栃木で指揮を執る寺内崇幸監督(右)と元ロッテ・岡田幸文コーチ【写真:荒川祐史】

元巨人、現栃木ゴールデンブレーブス・寺内崇幸監督が10年前を回想、インタビュー後編

 巨人で12年プレーし、現在はルートインBCリーグの栃木ゴールデンブレーブスを指揮する寺内崇幸監督は現役時代、ユーティリティプレーヤーとして活躍した。本職は遊撃手だが、二塁手としても多くの試合に出場。セカンドで自信を持ってプレーできるようになったのは、巨人の1軍内野守備走塁コーチだった木村拓也さんから教えてもらった一言だった。

 4月7日。木村さんが亡くなって10年が経過した。桜の季節が来ると、あの優しい笑顔がよみがえってくる。当時、プロ4年目だった若者は、気が付けば指導者になっていた。学んだことは今でも生かされている。

 木村さんの現役最終年だった2009年。主に遊撃を守っていた寺内監督はセカンドの守備の難しさを感じていた。

「僕はほとんどショートしかやっていなかったので、動き方がちょっとぎこちないというか、難しいなと思っていたんです。でも、キムタクさんに『セカンドって、ショートの間逆だよ』と言われたときに、ピースがはまったというか、すべての動きを反対にすればいいんだ!というように解釈しました。すごくやりやすくなりましたし、セカンドの動きが身に付きました」

 併殺の取り方や、送球の部分で新しい発見があった。聞いたことに関して、全てを答えてくれた。とにかく優しかった。一緒に食事を何度もさせてもらった。「僕にとってすごく勉強になる時間」だった。

 当時、まだ若手だった寺内監督の目に映る木村さんは「献身的」の一言に尽きる、尊敬の念を抱いていた。ベテランでも大きな声を出す姿、率先して動く姿は全員のお手本だった。

 あの緊急捕手誕生の瞬間もそうだった。

緊急マスクがチームを救う、木村拓也さんがヒーローになった日をG党は忘れない

 2009年9月4日のヤクルト戦(東京ドーム)の延長11回、途中出場していた加藤健捕手(現・3軍コーチ)が頭部死球を受けて、交代。残りの捕手はベンチにいなかった。

「加藤健さんが死球を受けて、気が付いたらキムタクさんはもうベンチにいなかったです」

 入団当初は捕手だった木村さんはすぐにブルペンに行って、次のイニングで守る準備をしていた。延長12回、二塁から捕手にまわり、野間口貴彦投手とバッテリーを組み、チームの危機を救った。

「僕がいた頃のジャイアンツは、レギュラー陣以外の人たち一人一人が本当にチームのために何をするかを考えていました。原監督の考えがどうなんだろうと、読みながら野球をしていた気がします。僕はまだ若かったので、先輩たちを見るよりも自分のことで精一杯。すごいところにいたんだなと今、思います。だから、やっぱり優勝ができたのかなと感じます」

 07~09年、第2次原政権は3連覇し、09年は日本一になった。木村さんが示したような献身的な姿勢は確実に受け継がれていた。チームの危機管理の一環として、ベンチの捕手登録が2人の時など“第三の捕手”として寺内監督はスタンバイを命じられることがあった。防具を付けて、練習をした。

「僕なんか(緊急捕手を)やったうちに入らないです。チームが必要とするのであればという感じです。僕が捕手をやることで、キャッチャーの方が1人(ベンチから)外れるという思いもあったので、申し訳ないというか、葛藤はありました。ですが、チームでやれと言うのであれば僕はNO(ノー)と言いたくなかった」

 それは木村さんが残していったものなのかもしれない。

「自分の思いというよりも、チームに対してという思いの方が強かったですね。僕もそういう人たちを見てきているからだと思うんです。キムタクさんを見ていた人なら、自分もと思いますよ」

 優しい笑顔も忘れないが、今でもそのハートもずっと心の中で生きている。(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)

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