長崎と感染症 江戸期から向き合う 流行も治療法も“長崎発”

「江戸時代の外来の感染症は長崎から広がった」と話す相川忠臣長崎大名誉教授=長崎市内

 新型コロナウイルス感染拡大の脅威が、世界を覆っている。人類は古くから、さまざまな感染症と向き合ってきた。鎖国下の江戸時代、海外に開いていた長崎はとりわけ、国際感染症の侵入にしばしば悩まされた歴史がある。同時に、最先端の西洋医学が最初に伝来し、国内の感染症対策をリードする地でもあった。江戸期から現代までの長崎と感染症との関わりを、2回にわたり振り返る。

 「江戸時代、日本に流れ着いた外国人は多くが長崎に送られ、外来の感染症は必ず長崎から広がった。一方、治療法や予防法も、海外貿易の窓口だった長崎から輸入された」。長崎の医学史に詳しい相川忠臣長崎大名誉教授(77)は、こう語る。
 江戸期の天領(幕府領)長崎を支配した長崎奉行所は、外交問題をつかさどる幕府の役所でもあった。鎖国下の日本に流れ着いた外国人は、長崎に入港するオランダ船や中国船で送還されることが多かった。感染者が長崎と上方(現在の関西)、江戸との間を往来することによって、感染症の流行は全国に広がった。
 長崎を起源とする西洋近代医学の国内普及史をひもとく相川氏の著書「出島の医学」(2012年、長崎文献社刊)によると、1801年10月、五島に1隻の外国船が流れ着いた。インドネシアのティモール島から、モルッカ諸島の貿易港アンボイナへ向かう船が、強風のため漂流。生き残っていた乗組員は44人のうち9人だけだった。
 9人は長崎に送られ、同年11月から出島や唐人屋敷に滞在。02年1月に長崎で風邪が流行し、同2月には上方へ、やがて江戸へと達した。インフルエンザだったとみられ、当時の書物には、「一家のうち1人も感染を免れない」ほど、感染力が強かったとの記述がある。感染源とされた漂流民がアンボイナ出身の「アンポン人」だったことから、この風邪は「アンポン風邪」と呼ばれた。
 インフルエンザ、天然痘、コレラなど、外来の感染症は長崎でしばしば猛威を振るった。これに対し、天然痘の予防接種(種痘)やコレラ治療法といった最新の西洋医学が、長崎にいち早く導入されていく。


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