池袋の事故から1年 母子を轢き殺した加害者を「違う世界の悪人」とする違和感 あなたがいつ加害者側になるのかは分からない

画像はイメージです

池袋事故から1年。日本人の感情移入は偏っていないか

新型コロナウイルスの世界的な流行のため、大きく報じられることはありませんでしたが、池袋のあの事故から4月19日で一年がたちました。当時87歳の男性が運転する乗用車が、赤信号を無視して横断歩道に突っ込み、歩行者など合わせて12人を死傷させたものです。なかでも母子2人の命が奪われたことは、日本中に大きな衝撃を与えました。

犠牲になった母子の無念さは計りしてませんし、残された親族・知人・友人の辛さは筆舌に尽くしがたいことは、いうまでもありません。

あわせて先に断っておきますが、加害者の男については、一縷の擁護もありません。

それでも、世の中の反応に違和感がありましたので、改めて考えてみたいと思います。

事故後から、被害者と遺族への悲しみの声と同じくらい、加害者への怒りの声があがりました。「どう見ても反省しているように見えない」「保身以外考えてない」という声は、私も同じように感じましたし、実際に加害者はそう取られて仕方ない発言をしていました。

しかし、私が抱いた違和感は、この事故を起こした加害者を「悪人」として私たちと違う世界の人間にしてしまっているように見えるところにあります。

被害者やその遺族に対しては、誰しもがその想像力で、「その辛さや悲しみは私たちには計り知れない」と言います。それは、自分や家族が殺されたことのない者にとっては当たり前の感覚です。同じように、私は誰かを殺してしまった経験もありませんし、家族がそういうことをしたこともないので、加害者やその周りの人の気持ちも想像に絶するものです。

つまり自分が、その時にちゃんと反省できるのか、一切の保身をせずに行動できるのかわかりません。池袋の事故の加害者となった男の振る舞いを「自分もやってしまうのかもしれない」と思いながら見ています。

それは「私がそういう人間である」ということとは別次元で「人間とはそういう生き物だ」という感覚に近いものです。

いつ自分が加害者になるか分からない

どこかに、あの事故から「自分も加害者のような振る舞いをしてしまう人間かもしれないから、そうならないように、一層自分を見つめて生きてみよう」という声が見えれば、違和感はなくなるかもしれませんが、今のところ、ありません。

決して、あの加害者に甘い言葉をかけろというわけではありません。

だけど「自分とは別世界の人」として「悪人」として処理するのが、とても気持ち悪いのです。

悪人が悪いことをするわけではありません。人はあらゆる縁で、瞬間的に悪事を働くこともあるし、良いことをする場合だってあります。

とにかく「いつ自分が被害者に、そして加害者になるかわからない」ということを感じて生きていかなくてはいけません。特に「加害者に」は意識できないので「敢えて」意識しないといけないと感じるのです。(文◎Mr.tsubaking)

© TABLO