JR福知山線脱線事故15年「闇夜に灯、ともし続ける」三井ハルコさん 事故車両、保存のあり方は

 乗客106人が亡くなり、562人が重軽傷を負ったJR福知山線脱線事故は25日、発生から15年を迎えた。

 新型コロナウイルスの感染拡大を考慮し、事故現場にある慰霊施設「祈りの杜」で予定されていた追悼慰霊式は中止に。

「祈りの杜」緊急事態宣言を受けて4月30日まで臨時閉鎖。希望した遺族や負傷者のみ訪問や献花ができ、申し出があれば個別に対応

 2018年に整備が完了した事故現場の慰霊施設「祈りの杜」(尼崎市久々知)。遺族や負傷者にとって「一番嫌いな場所だが、とても大切な場所」など思いはさまざま。そしてもう1つ忘れてはならない重要なことがある。

 事故車両の保存のあり方だ。

 JR西日本は事故車両を一般公開せず、大阪府吹田市の社員研修施設に保存することを決めている。

JR西日本は事故15年を前に車両保存の意向をヒアリング

 事故車両をめぐっては「祈りの杜」の整備よりも重要だとする声も多く聞かれた。

 当時7両編成だった事故車両は、兵庫県警が業務上過失致死傷事件の証拠品としてJR西日本から押収していたが、2011年に神戸地検が返還した。現在は損傷の激しかった1両目から4両目については高砂市内で、5両目から7両目は大阪市内のJR西日本の施設で保管している。

 JR西日本は2019年、事故から15年となるのを前に負傷者や遺族に会い、事故車両を社員の安全教育に活用したいと伝えたところ「これからの安全のためにも事故の悲惨さを伝えてほしい」と賛成する意見が多く挙がった。

 しかし一部では事故車両の一般公開について「見せものにしてほしくない」という慎重な声もあった。

 当時大学生だった次女が事故車両の2両目に乗り、大けがをした川西市の三井ハルコさんがラジオ関西の取材に応じた。

三井ハルコさん

 三井さんをはじめ、事故の負傷者と家族らの有志は事故の2年後、2007年7月から「補償交渉を考える勉強会」を開催。

 その後、補償(賠償)交渉などが個別では対処しきれなくなったため2008年2月に「JR福知山線事故・負傷者と家族等の会」を設立した。

 負傷者の心身の不調とJR西日本との補償交渉、またPTSDに悩む人がいる。三井さんの次女もラッシュアワーの電車に乗れない時期があった。

 1995年に起きた地下鉄サリン事件をきっかけに立ち上げた犯罪や事故の被害者、被災者らを支援するNPO法人「リカバリー・サポート・センター」とも連携を深めた。

 三井さんは母として、人間として「ほかの被害者も、そういった苦しみを我慢することに慣れてしまった。これからは苦しみやつらさをしまい込む心のけがを取り払うために、周りの人たちが被害者に寄り添って被害者自らが立ち上がることを息長く待つことが大切」と強く感じた。

 会合には弁護士や臨床心理士らを招き、アドバイスを受ける。対話を重ね100回を超えた。

 事故から15年を前にJR西日本から説明を受けた時の、率直な気持ちは…

「本来は被害者の家族として口を挟むことではないのかも知れないが、少し拙速な印象を受けた。一つひとつステップを踏みながらやるべきだったと思う。祈りの杜の整備もJR西日本が十分に時間をかけて遺族や負傷者に説明をした経緯もあり、プロセスを大事にしてほしい。いろんな場でいろんな意見を聞くことで『納得感』を持って事故車両のあり方を考える、そうした時間が必要」

 1985年8月12日、JAL123便が御巣鷹の尾根に墜落、520名の尊い命が奪われた日航ジャンボ機墜落事故。それから20年後にJR福知山線脱線事故は起きた。三井さんにとって日航機事故の遺族でつくる「8.12連絡会」事務局長・美谷島邦子さんとの出会いも大きな転機となる。

「かつて『負の遺産』を視察するために日本航空の安全啓発センター、全日空の安全研修センターなどへ行ったことがあり、その経験から事故に関するものの保存の必要性、重要性は痛感した」

 事故を起こした機体の一部を目の当たりにした。どう心に響いたかのか。

「直接の被害者ではない立場で申し上げるならば、客観的に事故を伝えていくときに 100の話よりも1つの証拠(事故機)が如実に物語る。遺族が持ち寄った遺品の数々……手書きのメモ、フレームが曲がったメガネ、針が止まったままの時計など、もう2度とこのような悲惨な事故を起こしてはならないと強く訴えかけてくる」

 JR西日本が一般公開しない点についてはどうか。より多くの人に事故の重大性を伝えることが必要なのではないか。

「見学申し込みをしたうえで見学が可能な、ある程度の公開性が必要かと思う。やはり日航機の安全啓発センターを訪れたことで、事故そのものを知ることがいかに重要かを思い知った。遺族の方々にとっても、逆に事故を伝えるという意味では非常に大切だと思う」

 鉄道や航空での大事故では保存のあり方について遺族らの間で意見が分かれ結論が出るまで時間がかかる。

 日航ジャンボ機墜落事故では、羽田空港の安全啓発センターで機体の残骸や部品などを公開するまで21年かかったという。

 三井さんは「風化させない」とは語らない。「いかに風化の度合いを緩めるか」これが現実の社会なのだと話す。そのうえで「この事故との基本的な向き合い方はこれからも一貫して揺るがせてはならない」と訴える。優しい瞳が鋭い眼光に変わる。

 これまで意見の衝突もあった。直接の被害者ではない立場、理解してもらえない部分もあった。心が折れそうになったこともある。しかし負傷者と家族らの会のメンバーは寄り添い、活動を続ける。「脱線事故はもちろん、日航機墜落事故や地下鉄サリン事件……衝撃的な体験をした人々にとっての社会貢献とは?」、こうした思いがずっとあった。「改めて立ち止まって学びたい」と神戸大学大学院の人間発達環境学研究科に通い、1年をかけて2年分の単位を取得、修士論文を提出し3月に晴れて卒業した。

 いつもと同じ朝、抜けるような青空だった。人々はさまざまな思いを胸に快速電車に乗った。

 「4.25」あの日から15年目の朝がくる……

 この事故は一人ひとりの体験が異なる。その人しか語れない15年がある。それぞれが自分の生き方をどう探るのか、厳しい現実と向き合っている。これからも。

「闇夜のなか、この場を必要とする人が1人でもいる限り、灯をともし続けたい」三井さんは寄り添い続ける。与えられたミッションだ。

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