マサカリ、トルネード、サブマリン… 野球少年は誰もが真似た個性豊かな投球フォーム列伝

「トルネード投法」の代表・野茂英雄氏【写真:Getty Images】

王貞治を打ち取るために編み出された「背面投げ」

日本野球は、投手に「正しいフォーム」を教える指導者が多かった。しかし、そんな中でも個性的なフォームで投げて話題になった選手もいる。日本プロ野球史に残る「投球フォーム」を振り返ろう。

○「サブマリン投法」重松通雄

日本プロ野球では戦前の阪急などで投げた重松通雄が元祖だと言われる。1936年阪急入団。179センチと当時としては大柄だったが、制球力がなかったために三宅大輔監督からアメリカでは投げる選手がいたアンダースローへの転向を命じられる。重松は本などを見てフォームを研究して独自のアンダースローを編み出し、通算63勝を挙げる。この後、武末悉昌、杉浦忠、秋山登、山田久志、そして当代の牧田和久、高橋礼までサブマリン投手の系譜は続いている。

○「ザトペック投法」村山実

村山実は1959年阪神入団。この年の6月の天覧試合で長嶋茂雄からサヨナラホームランを打たれた阪神の大エース。大きく振りかぶって体を開いて投げる熱投型の投手だった。当時、エミール・ザトペックと言うランナーが活躍していた。ダイナミックな走法で「人間機関車」と呼ばれたが、苦しそうに顔をゆがめて走る姿が新聞でも報じられた。全力投球の村山も、顔をゆがませ闘志満々で投げたことから「ザトペック投法」と呼ばれた。

○「背面投げ」小川健太郎

巨人V9時代の1967年に29勝した中日のエース、もともとサイド気味のアンダースローの投手だったが、1969年、猛打をふるっていた巨人王貞治を打ち取るために「背面投げ」を編み出した。振りかぶって左足を上げるところまでは同じだが、そこから右腕を背後に回してスナップを利かせて投げ込んだ。王に対してだけ4球を投げたが、王はすべて見逃した。しかし「背面投げ」を投じられた打席はすべて凡退した。「背面投げ」は反則投法ではないが、小川以降は公式戦で投げた投手はいない。

「あっちむいてホイ投法」の岡島秀樹もNPB・MLB双方で活躍した【写真:Getty Images】

始球式でも度々、登場してファンを沸かせる村田兆治の「マサカリ投法」

○「マサカリ投法」村田兆治

通算215勝のロッテのエース。振りかぶると左腰をぐっと高く上げて体全体を傾がせて。剛速球を投げ込む。この豪快な投法は、マサカリを振り下ろして木を伐る動作に似ていることから「マサカリ投法」と呼ばれた。村田は1983年に「トミー・ジョン手術」を受けて翌年復活。以後は毎日曜に登板し「サンデー兆治」と呼ばれ注目を集めた。テレビで紹介される機会が増えたことで「マサカリ投法」は多くの人が知るところとなった。

○「トルネード投法」野茂英雄

1989年、史上最多の8球団が指名する中で近鉄に入団。新人から4年連続最多勝を記録し、一気にパのエースにのし上がる。大きく振りかぶって左腰を高く上げ、そのまま体を半回転させて背中を打者に見せる個性的な投法は「トルネード(竜巻)」と呼ばれた。「制球が悪くなる」と矯正させようとした指導者もいたが、野茂は従わなかった。この投法から剛速球、フォークを投げ込んだ。野茂はMLBに移籍してからもこの投法で投げた。

○「UFO投法」山内泰幸

1994年ドラフト1位(逆指名)で広島入団。1年目に14勝を挙げる。セットポジションから始動時に、右ひじをぐっと高く上げてから投げ込んだ。ひじを上げるしぐさが、ピンクレディーの「UFO」の振りに似ていたことから「UFO投法」と呼ばれた。コーチの指導もあって、山内は一時期この投法をやめたが、普通の投法で投げると制球が悪くなったために元に戻した。

○「あっちむいてホイ投法」岡島秀樹

巨人、日本ハムなどで救援投手として活躍した左腕。リリースの際に、顔が三塁側を向くフォームから「あっちむいてホイ投法」「ノールック投法」と呼ばれた。若いころは制球が悪かったため投手コーチは矯正を指示したが、岡島は拒否してこの投法のままで制球力を改善した。打者を幻惑する効果はあったようだ。MLBに移籍後は、このフォームでクローザー、セットアッパーとして活躍。「Autopilot Man(自動操縦男)」などと呼ばれた。

現役投手の中にも変則フォームの投手は何人かいるが、「○○投法」と名付けられるのは1軍で活躍した選手に限られる。どんなフォームで投げても好成績を上げなければ、話題にならないのがプロの世界だといえよう。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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