平松政次、田代富雄、松原誠…個性あふれる“大洋ホエールズ”ベストナイン

2019年のファンフェスティバルに出席した田代富雄氏(左)と屋敷要氏【写真:編集部】

救援投手部門で、佐々木主浩を押しのけ選ばれた男とは?

大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)は1950年、プロ野球の球団数拡張と2リーグ分立をうけて、セ・リーグに加盟した。当初、本拠地は山口県下関市に置いた。53年には松竹ロビンスと合併し『大洋松竹ロビンス(翌54年は洋松ロビンス)』となり、大阪をフランチャイズとした。55年には松竹が球団経営から撤退して『大洋ホエールズ』が復活し、神奈川県川崎市に移転。78年の横浜スタジアムの開場とともに本拠地を横浜へ移し、チーム名も『横浜大洋ホエールズ』となった。さらに93年に『横浜ベイスターズ』に改称したが、ここではホエールズ(53、54年はロビンス)と名乗った50年から92年の43シーズンに限定して、ベストナインを選出したい。

先発投手では、球団創設年の1950年に25勝を挙げた高野裕良が初代のエースといえるだろう。アンダースローの名投手・秋山登は、大洋が初優勝を遂げた60年に、エースとして21勝を挙げMVPに輝いた。先発にリリーフに大車輪の働きで、20勝以上を6度、通算193勝をマークした。平松政次は、岡山東商高、日本石油を経て、66年第2次ドラフト2位で入団。『カミソリシュート』と呼ばれた決め球を武器に、通算201勝を挙げている。巨人戦通算51勝は、金田正一の65勝に次ぐ歴代2位で、長嶋茂雄が大の苦手としたことでも知られる。遠藤一彦は、東海大から77年ドラフト3位で入団。横浜大洋ホエールズ時代を代表するエースで、通算134勝。同年代の巨人・江川卓と何度も好勝負を演じた。秋山か、平松かで悩むところだが、ホエールズ、ベイスターズを通じ球団史上最多の通算勝利を誇る平松に、軍配を上げたい。

救援投手では、左腕の権藤正利が先発、リリーフの両方で活躍。1962年は68試合に登板し、そのうち18試合が先発、50試合が救援だった。76年ドラフト1位で大商大から入団した『ヒゲの斉藤』こと、斉藤明雄(82年以降は明夫)は、最優秀救援投手のタイトルを2度獲得。82年にはほぼ救援専門ながら規定投球回に達し、最優秀防御率に輝いた。中山裕章は、高知商高から85年ドラフト1位で入団し、88年には両リーグを通じ最多の70試合に登板して、24セーブを挙げた。佐々木主浩は89年ドラフト1位で東北福祉大から入団。横浜大洋ホエールズ時代の3年間にも計40セーブを挙げているが、球界を代表するクローザーとなり『大魔神』の異名が定着するのは、93年に横浜ベイスターズと改称された以降であることから、ホエールズ時代に限定するなら、佐々木でなく斉藤を選出するべきだろう。

捕手では、土井淳が岡山東高(現岡山東商高)、明大を通じてバッテリーを組んだ秋山とともに1956年に入団。頭脳派の名捕手として活躍した。伊藤勲は、61年に東北高から入団し18年間在籍。69年に23本塁打を放つなど強打の捕手として鳴らした。福島久晃も66年ドラフト外で大昭和製紙から入団し、18年間プレー。こちらも打撃が良く、伊藤と併用された。強肩・強打の若菜嘉晴は、82年限りで阪神を自由契約となった後、米マイナーリーグに所属していたが、83年のシーズン途中に帰国し横浜大洋入り。85年に全130試合に出場するなど、正捕手として活躍した。4人には一長一短があるが、ホエールズが唯一の優勝・日本一を果たした60年に“正妻”の座にあった土井を選びたい。

一塁手では、戦前から名古屋軍(中日)などでプレーしていた大沢清が、大洋の球団創設とともに加入。初年度の1950年に両リーグを通じ最多の45二塁打を記録するなど、活躍した。「大沢親分」こと大沢啓二の実兄である。小林章良は、大洋松竹、洋松時代と、川崎移転初期に活躍した好守の一塁手。しかし、このポジションはやはり、長年主砲を張った松原誠の存在が圧倒的だろう。62年に埼玉・飯能高から捕手として入団。翌年から一塁、三塁などを守った。通算2095安打、球団最多記録の330本塁打を放ったが、打撃タイトル、ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)と一切縁がなかったのは、一塁で王貞治、三塁で長嶋茂雄とキャリアが重なっていたがゆえの不運だ。88年入団のジム・パチョレックは、在籍した4年間全シーズンで打率3割をマークし、90年には首位打者に輝いたが、19年間活躍した松原には及ばない。

二塁手は、1960年に早大から入団した近藤昭仁が、1年目にいきなりレギュラーに定着して優勝に貢献し、日本シリーズではMVP。その後は、バントの名手として知られた。ジョン・シピンは、72年から6年間在籍し、毎年20本塁打以上、打率3割前後の安定した成績を残した。髭と長髪で『ライオン丸』と呼ばれ、人気も博した。そのシピンが巨人に移籍し、代わって78年から加入したフェリックス・ミヤーンは、79年に打率.346で首位打者を獲得。高木豊は、中大から80年ドラフト3位で入団し、俊足巧打で『スーパーカートリオ』の1人として活躍した。13年間在籍し、打率3割台が8度。盗塁王を1回、ベストナインを3回(うち2回が二塁手、1回は遊撃手)獲得した。活躍期間の長さもあり、高木豊を選出したい。

スーパーカートリオ、スーパーマリオ、天秤打法…愛称も多彩

三塁手は、桑田武が1959年に中大から入団。1年目に、いきなり31本塁打を放って新人最多記録を樹立し、本塁打王、新人王にも輝いた。61年には打点王。ONの向こうを張る強打者だった。松原誠は前述の通り、三塁手としても活躍。クリート・ボイヤーは、ヤンキース、ブレーブスで正三塁手を務めた後、35歳で来日したが、守備は抜群でダイヤモンドグラブを2回獲得した。田代富雄は、72年ドラフト3位で藤沢商から入団。19年間在籍、1軍実働16年で、松原に次ぐ球団史上2位の通算278本塁打を量産し、『オバQ』の愛称で親しまれた。長年の功績を考えれば、田代がふさわしいだろう。

遊撃手では、引地信之が下関商、社会人野球の全下関を経て、1952年に地元に本拠地を置いていた大洋に入団。1年目からレギュラーとして活躍した。松岡功祐は、66年第1次ドラフト1位でサッポロビールから入団し、こちらも1年目からレギュラーを張った。山下大輔は、73年ドラフト1位指名を受け、慶大から鳴り物入りで入団。華麗な守備でスターとなり、ダイヤモンドグラブ賞8回、ベストナイン1回、オールスター出場4回。82年ドラフト4位で名古屋電気高(現愛工大名電高)から入団した高橋雅裕も、堅実なグラブさばきを誇ったが、ここは実績、人気で山下が突出している。

外野手はどうか。青田昇は、巨人の強打者として有名だが、大洋・大洋松竹・洋松に1952年から6年間在籍し、本塁打王を3度獲得している。近藤和彦は、明大時代から同期の長嶋茂雄のライバル。独特な『天秤打法』で打率リーグ2位が4度あったが、首位打者は獲れずじまい。盗塁王を1回獲得した。中塚政幸は、PL学園、中大を経て67年ドラフト2位で入団。小柄ながら俊足巧打のリードオフマンとして活躍し、盗塁王1回。長崎慶一は、72年ドラフト1位で法大から入団し、シュアな打撃で鳴らした。82年には.351の高打率で首位打者を獲得した。屋鋪要は、77年ドラフト6位で兵庫・三田学園高から入団し、『スーパーカートリオ』の1人として盗塁王3回。守備範囲も広く、ゴールデングラブに5回輝いた。86年加入のカルロス・ポンセは、本塁打王1回、打点王2回と活躍。口髭を蓄えた風貌から『スーパーマリオ』の愛称が浸透し、人気も抜群だった。多士済々だが、キャリアの長い近藤、長崎、屋鋪を選出する。

こうして振り返ると、優勝は1960年の1度だけだが、ホエールズには個性的かつ魅力的な選手がめじろ押し。思い出すだけで楽しくなる顔ぶれである。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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