コロナ禍の今、振り返る『市民選挙』終焉の分岐点 ―2013年 神戸市長選挙

4月8日に7都道府県に発令された「緊急事態宣言」が、全国に拡大されて迎えた今年のゴールデンウィーク。大阪府の吉村洋文知事らが、地方からの発信で中央の政府を動かそうと必死に試みているのを、一国民として自分も「参加者」の一人のようにしてみていると、あの時の「熱」が私の中には蘇ります。

地方から、政治を変える、地域の者の声を届けるのは、地域から考える、それが一番と信じ、その中で戦った約一年。私にとっての「夏」であり、そして、ある意味、地域からの戦いの決定的な敗北ともなったエポックメイキングな選挙であったと今も信じます。

2013年の10月27日に投開票が行われた神戸市長選挙。票対票で、自民、民主、公明推薦の久元喜造氏が、無所属で政党支援なしの樫野孝人氏を振り切って、初当選をされた選挙。私は、樫野候補の陣営で「須磨区・長田区・兵庫区」の担当となり、特に兵庫区では副支部長の肩書を途中で与えられる形で動きました。

当時の私は、2012年暮れにあった「衆議院議員選挙」で、「日本維新の会」の候補に応募。選ばれて、最初は実家のある兵庫県明石市を含んだ地域での出馬を打診されました。しかし、ここは、今のまさにコロナ禍を担当する西村康稔経済再生担当大臣の地元。日ごろの活動も存じ上げていました。

地盤・看板・鞄の何もない私が相手できるかたではない、と思ったこともあって徳島県からの出馬を引き受けました。紆余曲折を経て、この出馬は辞退するのですが、当時の「日本維新の会」の上の方にも熱く言われた「地方から政治を変えるんだ」には強く賛同しました。

そして、「維新とうちは合流する。もう決まってるんだ」と、2012年晩秋に「みんなの党」の江田憲司幹事長(当時)の話を聞くに及んで、「『維新』でも『みんな』でも同じなんだ」と完全に思い込んでしまいました。

なぜ、身の上話を少し書いたか、というと、これらが繋がって、2013年の2月から「『みんなの党』神戸市会議員団」の政務調査員として1年少し、働くことになったためです。

この当時の「みんなの党」は、2009年に渡辺喜美さんが作られてから、既存の政党にない、しがらみのない政治を訴え、神戸市では、その考えが市民に受け入れられたと取っていい形で、2011年の統一地方選挙・神戸市議選で10人の候補のうち、8人が当選する、という快挙を成し遂げ、神戸市会である程度の発言権を保持する状態になっていました。

自民党や民主党や公明党や共産党と違って、しがらみのない、つまり支援する団体をもたない政党。そして、それは、当時は橋下徹氏を中心に活動していた「日本維新の会」にも通じるものでした。「第三極」という呼び名が流行っていたのも当時でした。

2009年の神戸市長選で、無所属新人として出馬し、善戦しながら現職に敗れた樫野氏は、その後、渡辺氏と接近し、「みんなの党」と非常に近い距離に位置するようになります。私が樫野氏の選挙を手伝うようになった直接の理由は、「しがらみのない、市民目線での政治を目指そう」という「みんなの党」の理念、そして、それと同様の考えであった樫野氏に賛同したためでした。

2013年の神戸市長選挙は、こういった政治的背景、つまり「日本維新の会」も「みんなの党」も元気だった、ということに加え、既存政党に対する市民レベルでの意識的でない抗議も入って、おそらく「政令指定都市」以上の選挙では、日本国内でも類をみない、市民の手作り活動が樫野氏を支える選挙になりました。

神戸市会の「みんなの党」は、2013年6月に所属市議会議員から詐欺での逮捕者が出るなどしたことで、分断され、樫野氏を支える政党は改めてゼロとなりましたが、それが、逆に支持政党を持たない一般市民にとって「私たちが、神戸市を作る」という意識を生み出し、いい方向に出た、と思います。樫野氏が政策に、支持者からの意見をほんとうに、その場で書いたものをそのまま取り入れるような形をとったのも支持を集めたように感じます。

樫野氏は自身のオフィシャルサイトに今も

「自民・公明・民主を相手に、市民が立ち上がり、誰に強制されるわけでもなく、500名を超えるボランティアスタッフが自ら駅に立ち、ビラを配布し、ハガキを書き、ポスターを貼り、数々のアイデアを実現しながらの選挙戦でした。

選挙は戦いでなく、仲間づくり』だという信念のもと、私の至らなさを補って余りある支持者の活躍こそ、神戸市党選挙史上に残るものだったと確信しています。間違いなく、この方々は樫野の支持者というだけでなく、みんながそれぞれ当事者意識を持った主役として神戸のために活躍していました。これこそが、『市民が主役の街づくり』の原点になるのではないかと感じました」
(原文ママ、引用)

と記されています。この言葉通り、の選挙がそこにあった、と思います。

 

2013年の神戸市長選で街頭に立つ樫野氏(オフィス・シュンキ撮影)

この既得権と市民との戦い、という意味で、この神戸市長選挙で象徴的だったシーンを2つだけ。

一つは、同年9月に行われた、ある討論会。市長候補の5人のうち、4人が集った場で、久元氏が樫野氏に「神戸を維新の軍門に下らせるのか!」と強く迫ったシーンがありました。その際、樫野氏は「(維新の軍門に下る)そんなこと、あるわけないじゃないですか!」と応じ、改めて、既存政党とは一線を画すことを即答しました。

もう一つは、同年10月19日。神戸市長田区JR新長田駅で起こったこと。その日は、その場所で、樫野氏と久元氏の街頭演説が、ほんの少しの時間差で競合していました。

当時の矢田立郎神戸市長は、久元候補の応援に早めに表れたのですが、そこで、樫野陣営の、のぼりが立てられているのに立腹されたのか、私も含めた数人の樫野陣営の市民に「(おまえら)あほか!」と言い放ったのです。

既得権を守るのに必死なのは理解できましたが、これはほんとうに驚きました。私も含め、そこにいたメンバーはすべて神戸市民でしたから。現職の市長に「あほか」と言われるとは、でした。

この選挙で、樫野陣営の選挙対策部長となったのは、兵庫県会議員だった三戸政和氏。三戸氏は兵庫県高砂市選出で民主党所属の議員でした。しかし、民主党は、強固な組合組織がバックの政党。バックが、久元氏の推薦を決めたことで、それより先に、樫野氏の選対入りしていた三戸氏は、その場を退くか、離党するか、を迫られる形となり、結局、「尊敬する樫野氏の支援を続ける」と、宣言して、民主党を除名されます。

彼も既成政党、そして既得権益と間違いなく戦った人でした。三戸氏は、この選挙後、兵庫県会議員1期目の途中、翌年6月に行われた加古川市長選挙に出馬し、現職の岡田康裕氏に敗れたことで政界を35歳の若さで去りますが、その後、実業家として躍進。「サラリーマンは300万円で小さな会社を買いなさい」を手始めに、実用書のベストセラーを連発し、現在に至っています。

2009年の初出馬の時は、市民の支えが、まさにふわっとしたものながら、当選した現職の矢田氏に7852票差まで迫っていた樫野氏。この2013年の選挙は、神戸市の9行政区すべてに、自発的な市民組織が出来上がり、選挙前の1か月は、主要な駅のどこにでも、神戸市民の方が自発的に応援に立つ選挙となりました。掲げたテーマは「市民が主役」の一点。総務省の官僚出身で、神戸市の副市長経験者の久元氏を「役所の代表」と見立てて、「市民対役所」の構図となって、投票日になだれ込んでいきます。

結果は約90パーセント開票時点まで、樫野氏がリードし、久元氏が「負けたあとのコメントを考えていた」と振り返る接戦の末、久元氏が161,889票、樫野氏が156,214票と、5765票差で、久元氏が初当選。9区の中で、樫野氏が勝利した区が5つもあったことが、この選挙の意味を知らしめていた感がありました。

薄氷でありながら、既得権を持っている側、役所側の勝利。そして、自発的な集合体であった、市民側の敗北。厳密には、5人の候補に投票した方すべてが市民ですから、この区分けは乱暴すぎるのですが、選挙後の神戸市内の雰囲気はまさに、それであったと思います。

この選挙の後、2014年に「みんなの党」も解党。樫野氏は、地域政党「神戸志民党」を結成し、2015年の統一地方選挙に挑みますが、10人以上立てた新人候補は県会議員に須磨区から出た樫野氏自身以外全員落選。

この統一地方選挙では、2011年に神戸市会で会派「みんなの党」を組んだ8人の中で、出馬した7人のうち1人だけが2期目に進めた厳しい結果となるなど、事実上、第三極の解体(「日本維新の会」=当時は「維新の党」は躍進しますが、ある意味、当時から既存政党、といえたと思います)を示唆した選挙になったと思われます。その後、2017年の神戸市長選挙には樫野氏は出馬されていません。

2009年の、樫野氏の無所属での神戸市長選立候補から、2013年の同選挙での敗北、そして2015年の統一地方選挙。やはり、2013年の神戸市長選挙で、完全無所属の民間人・樫野氏が勝てなかったことが、政令指定都市クラス以上の選挙の分岐点になったのではないでしょうか。

その後の、直近では、今年の京都市長選挙での村山祥栄氏の完敗など、国内での大きな選挙のほぼすべてを見るにつけ、既存の国政政党に全く頼らず選挙に勝つ道が断たれたような気が私はするのです。もちろん、これは、現在の「日本維新の会」が、すでに2015年の「維新の党」の時点で、既存政党になっていた、という持論も含んでの解釈ですが。

(オフィス・シュンキ)

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