第37回「コロナになってもいいや」というインタビュー映像を見て、「この気持ちを知っている」と思った日の苦しさ

「あ、わたしこの気持ち知ってる」

その映像を見たときに、違和感と既視感を覚えました。

ごはんを食べながらつけたニュースで、パチンコ屋さんに並ぶ女性へのインタビュー映像が流れました。

外出自粛のなか開店待ちをしていたその女性は、「全然コロナにかかってもいいやと思ってる」と答えています。顔はうつっていませんでしたが、たぶん少し笑っていた(苦笑に近い笑い)ように思いました。

その瞬間、気持ちがザワっとしました。

わたし、この気持ちとてもよく知っている。

気になってたまらず、SNSでその発言を検索をしてみました。もちろんバッシングの嵐。無自覚で罹患していてウイルスを運んでしまっているかもしれないこと、周囲の人へうつすかもしれないという配慮、感染のリスク、医療従事者への負担を増やす可能性、すべて頷けますし、行動だけを見たら今は考えてほしいと強く思います。周りのことも考えて、強くそう思います。

それでもこの発言だけを単体で見たときに、わたしには責められないと感じました。

自分自身がこれまで何度も思ってきたことに、とても似ているからです。

「いつ死んでもいいと思っている」

破れかぶれで投げやりになっていた無気力の日々、実際に死んでしまったらどのくらいまわりに迷惑をかけるかなんて考える気持ちの余裕はありませんでした。希望がなかったからです。生きていても、死んでしまっても、その両方はまるで同じことのようにしか思えませんでした。

「自分はどうなってもいいや」と口にするとき、わたしは必ず笑っていました。

どうなってもいいという言葉の重み、とても言い表せないほどの耐えがたい絶望、未来のなさ。それをたった一言にこめることを、笑ってでもいないと処理できなかったのかもしれません。本気で「自分はどうなってもいいこと」を話し出したらきっと泣いてしまっただろうと思います。

腹がたつ人も、説得しようと思う人もたくさんいるだろうことは想像がつくし、いまのわたしだったらそう思ってしまう側の可能性だってあります。だけど、そのときのわたしは、どうしても未来が見えなかったのです。

生まれ持って「いつ死んでもいいと思っている」わけではありませんでした。それに、楽しみなことがある前日、気持ちが高ぶって眠れないようなときに「自分はどうなってもいい」なんて思ったことはありません。生まれつきの感情ではない、そう思う理由がそれこそ数えきれないほどあったのです。

自宅にいてほしい自宅にいたい、外出を控えてほしい。その前提があって読んでほしいのですが、わたしが大声でステイホームと言えない理由は、いまの社会にはステイホームをし続けられる生活の余裕が見えないからです。

飲食店の店員さんが「店を開けても開けなくても地獄」と泣いていたインタビューのこと。

「電車に乗るのこわいよ」と出勤中の友だちが送ってきたラインのこと。

出勤せざるをえなかった家族が家に帰ってきて緊張がとけたらストレスの蕁麻疹を発症したこと。

自身の生活だって不安なのに、お給料が入ったらもう一度映画館に募金をしに行くと言った母親のこと。

わたし自身の職場のこと。

この瞬間にも、ラジオからは「その外出は命よりも大事なものですか」と流れています。もちろん、そうではなくあってほしいよと思う(つまり命のほうが大切であってほしい)けれど、それでもその投げかけだけですまないことをよく知っています。

「コロナになってもいいや」そう思わざるをえない状況のことを想像してみます。理由はいくらでも思いつきます。かろうじていまのわたしはそう思っていないけれど、その気持ちは簡単に思い出すことができる。立場は簡単にひっくりかえります。

「そんなこと思うやつまじ迷惑」だけど、「そんなことを思わせた」のは、その状況やいまの社会をつくったのはわたしたちではないだろうか。医療現場で働くひとの現状を聞くたび、息がとまりそうになります。時期がずれていたら、あの発言をしていたのはわたしだったかもしれないのです。

わたしたちが自分にも他人にも優しくあるために、だれにでもいつでもいつまでも、明日の保証がちゃんとあってほしい(まさに #自粛と補償はセットだろ だと思うのです)。

ただそう思って、しかるべきところに声をあげていくことを続けるしか、いま自分にできることが見つかりません。

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