王貞治の代打アーチ、四重殺、1イニング5奪三振… プロ野球史に残る“まさか”の珍記録

現役時代に巨人で様々な記録を作った王貞治氏(現ソフトバンク球団会長)【写真:Getty Images】

めったに起きない“超レア”な好珍プレーを紹介

1936年以来、84年間にわたるプロ野球の歴史の中で、めったにない“超レア”なプレーを振り返ってみたい。

○無補殺三重殺

三重殺(トリプルプレー)自体、年に1度あるかどうかのレアケースだが、NPB(日本野球機構)史上ただ1度、1人の野手のプレーだけで、補殺を伴わない「無補殺三重殺」が成立している。1967年7月30日、阪急-東京(現ロッテ)のダブルヘッダーの1試合目(西宮球場)。東京は2回表無死一、二塁で、打者・大塚弥寿男が二塁ライナー。これを阪急の二塁手・住友平が捕球し、まず1アウト。そのまま二塁を踏み、二塁走者・前田益穂が飛び出していたため2アウト。さらに住友は、二塁近くまで進んでいた一塁走者・篠原良昭にタッチし3アウト。ほんの十数秒間のプレーだった。なお記録上、「三重殺打」はなく、打った大塚には「併殺打」が記録された。

○四重殺

野球は3アウトでチェンジだが、状況によっては、1つの打球で4つのアウトが宣せられる事がある。1962年7月12日の南海-東映戦(大阪球場)。南海は1回裏無死満塁でケント・ハドリが外野フライで1アウト。これを見て、3人の走者全員が一斉にタッチアップで次の塁を狙った。しかし、外野からの返球で二塁走者のバディ・ピート、一塁走者・野村克也が相次いでタッチアウトに。三重殺が成立した。これで3アウトのはずだが、タッチアップで本塁に生還した三塁走者・大沢啓二の離塁が早かったと、東映の三塁手・西園寺昭夫がアピール。審判がこれを認め、4つ目のアウトを宣した。西園寺のアピールがなければ、南海に点が入っていたはずだった。

貴重な王貞治氏の代打本塁打も…

○0球セーブ

セーブは、3点以内のリードで登板し、1/3イニング以上投げ、同点・逆転を許さずリードを守り切り試合を終了させると記録される。したがって、打者に1球も投げずにセーブが付くこともありうる。

1980年10月2日の南海-阪急戦(大阪球場)。南海は5-3でリードした9回表2死一、三塁で、金城基泰をマウンドに送ったが、打者に対して初球を投げる前に、盗塁を試みて離塁した一塁走者・福本豊を牽制球で刺し、試合を終わらせた。金城は投球回1/3でセーブを稼ぎ、投球数は0。対戦打者数も当然0だった。

翌81年6月4日にも同じ大阪球場で、“0球セーブ”が記録された。南海-日本ハム戦で、南海は8-7とリードして迎えた9回表二死一塁で、三浦政基が登板。三浦は打者への初球を投げる前に、一塁走者の井上晃二を牽制球でアウトにし、投球回1/3、投球数0、対戦打者0でセーブを稼いだ。

“0球セーブ”はこの2例だけ。ちなみに、「0球勝利」も理論上は起こりえる。打者に1球目を投げる前に、走者を牽制球でアウトにし、直後の攻撃で味方に決勝点が入るケースだが、NPBではいまだに記録されていない。

○868本中、たった1本の代打本塁打

2019年シーズンの代打本塁打は、両リーグで54本。決して珍しくはないが、選手によってはレアケースになる。歴代最多の通算868本塁打を誇る巨人・王貞治は、1979年8月28日の中日戦(後楽園球場)で、一塁守備中に走者の井上弘昭と交錯し、胸を強打して途中退場。その後8試合も欠場した。9月10日の大洋戦(後楽園)で、代打で復帰。次戦の12日の阪神戦(後楽園)もスタメン落ちしたが、8回裏に二宮至の代打で登場した。池内豊に対し、カウント2-0からの3球目を一振りで仕留め、右翼席にソロホームラン。王にとっては通算831号。翌80年限りで現役を引退するが、プロ22年間でこれが唯一の代打本塁打だった。試合後には「(代打アーチを)1度は打ってみたかったんだ」とにこやかに語った。

○“代打逆転満塁サヨナラ釣り銭なし優勝決定本塁打”

本塁打には、いろいろな“但し書き”が付くが、これほど長いものは1本だけだろう。2001年9月26日、近鉄は「マジック1」で本拠地大阪ドーム(現京セラドーム大阪)での最終戦を迎えた。相手はオリックス。2-5で9回を迎え敗色濃厚だったが、無死満塁のチャンスをつかんだ。梨田昌孝監督はここで北川博敏を代打に送る。相手投手は新人ながらクローザーとして活躍する大久保勝信。北川はカウント1-2からスライダーを振りぬき、バックスクリーン左横へ放り込んだ。

代打逆転満塁サヨナラ本塁打は、この1発も含め8例あり、そのうち“釣り銭なし”(3点差での代打逆転サヨナラ満塁弾)は3例だが、これに「優勝決定」が付くのは、後にも先にもこの1発だけ。長い但し書きは、北川の代名詞となった。

同じ投手から2試合連続代打サヨナラ本塁打も…

○1イニング5三振

野球は3アウトでチェンジだから、1イニングに取れる三振は3つまでのはず。しかし、振り逃げの場合は、アウトはつかないが、三振の記録は残る。理論上は、振り逃げが続けば、三振数も無限に増える可能性がある。

1軍公式戦では、1イニング4奪三振は26例(単独の投手によるものは、24人25例)。5奪三振以上は1度も記録されていない。しかし2軍では、5奪三振が1度あった。2010年5月8日のイースタン・リーグ楽天-日本ハム戦(利府球場)で、7回に登板した楽天・木谷寿巳は、先頭の佐藤賢治を三振。岩舘学も三振に仕留めたが、暴投で振り逃げを許した。続く市川卓を三振。杉谷拳士も三振に取ったが、再び暴投による振り逃げで生かした。そして中島卓也から三振を奪い、この回5奪三振を記録したのだ。

○同じ投手から2試合連続代打サヨナラ本塁打

豊田泰光といえば、黄金期の西鉄ライオンズ(現西武)のスター選手だが、1963年に国鉄(のちサンケイ、現ヤクルト)に移籍。65年以降は右ひじの故障でスタメン落ちすることが多くなっていた。

サンケイは68年8月24日の中日戦(神宮)で、3-4の劣勢で9回裏を迎えた。相手投手の山中巽に対し、走者一塁でサンケイ・別所毅彦監督は兼任コーチでもある豊田を代打に送る。豊田はカウント3-1から、左翼席に逆転サヨナラ2ラン。これが自身初の代打本塁打だった。翌25日の同カードは、3-3で延長戦に突入。中日のマウンドには9回からやはり山中が上がり、10回裏1死一、二塁で、またもや豊田が代打で登場した。そしてカウント2-0から、左翼席へサヨナラ弾。豊田は試合後、頬をつねって見せ「うん、やっぱり痛い。夢じゃない」とおどけた。

2試合連続代打サヨナラ本塁打は、ヤクルトの後輩の若松勉が77年6月12日、13日の広島戦で記録しているが、同じ投手から打ったのは豊田だけだ。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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