今だから必要なハナ肇とクレージーキャッツ、レッツ・ゴー・クレージー! 1986年 8月 ハナ肇とクレージーキャッツのアルバム「クレイジー・キャッツ・デラックス」がリリースされた月

オールナイトで観た、ハナ肇とクレージーキャッツ!

コロナ禍による自粛生活中、部屋を片付けていたら、学生時代に付けていた映画鑑賞ノートが出てきた。ペラペラめくってみたら、青い感想がいろいろと書かれていて、恥ずかしいやら、切ないやら。ともかく、あー、あの映画、観たよなあ…… と、俄然記憶のソウマ灯が回り始めた。

大学1年、上京して3か月弱、学校で親しくなった級友たちと、クレージーキャッツ映画のオールナイト上映を観に行った。そう、主に1960年代に製作された、ハナ肇とクレージーキャッツの主演による映画の企画上映。オールナイトで映画を観るのは、これが初めてで、なんだかワクワクした。

きっかけは「イエローサブマリン音頭」大瀧詠一プロデュース!

そもそもクレージーキャッツに興味を持ったきっかけは高校時代、大瀧詠一がラジオ番組で、クレージーの曲の特集をしていて、それが強烈に引っかかったこと。大瀧詠一がプロデュースした金沢明子のシングル『イエローサブマリン音頭』がリリースされたころで、この曲に影響をおよぼしたのがクレージーキャッツだったということで、特集されていたと記憶している。「イエローサブマリン音頭」にハマり、シングルを買った自分はフムフム…… と思って聞いていた。

いや、フムフムだけではない。曲を聴いては爆笑した!「無責任一代男」の都合良すぎるサクセスストーリー、「遺憾に存じます」のヤケクソ感、「これが男の生きる道」のワビサビ……。勉強しなければイカンという状況に縛られていた受験生には、とてつもなく自由なブレイクオンスルーだった。

なので、進学して上京してクレージーの映画を観るのは夢でもあった。このころはレンタルビデオ店ではクレージーの映画は見当たらなかったし、そもそも自分もビデオデッキを持っていなかった。もちろん、配信などあるはずもない。

植木等の踊りはデヴィッド・バーン?

そんなワケで、1986年6月28日、浅草東宝へと足を運んだ。上映作品は全部で5本。当時の映画鑑賞ノートによれば、一本目の『日本一のゴマすり男』は、バイトで遅れて到着したため見逃していたらしい。続くは『クレージー作戦 先手必勝』『クレージーの無責任清水港』『日本一の男の中の男』『香港クレージー作戦』。『日本一の~』は少々真面目キャラだが、それ以外の作品における植木等のキャラはお調子者を突き詰めていて、電撃パップな別世界人だ。かっこいい!ちなみにノートには “植木等の踊りはデヴィッド・バーンに似ている” と記されていた。

上映が終わり、帰り道、友人たちと「すごかったねぇ」「面白かったねぇ」と、口々に言い合ったのを覚えている。ただでさえバカな学生のアタマの中に、無責任男が住み着いた。浅草東宝では月に一度、クレージー映画のオールナイトを開催していたので、これはすべて観なければ…… と、以降、度々通うようになった。最初のときに見逃した『日本一のゴマすり男』も改めて観たが、これは傑作だ!

その歌詞はバイタリティの宝庫、クレージーの人生哲学!

同年8月、大瀧詠一の監修によるクレージーキャッツの編集盤『クレイジー・キャッツ・デラックス』がリリースされた。このアルバムもホントに素晴らしくて、「遺憾に存じます」を改めて聴いてシビレた。「レッツ・ゴー・クレージー!」とシャウトしてかっこいいのは、自分の中では植木等とプリンスだけだ。

クレージーキャッツの曲、その歌詞はバイタリティの宝庫で、お笑いソングではあるけれど、人生哲学となりうるものもある。たとえば、「だまって俺について来い」。

 ぜにのないやつぁ
 俺んとこへこい
 俺もないけど 心配すんな
 みろよ 青い空 白い雲
 そのうちなんとかなるだろう

このフレーズのあとに、植木等の快活な笑い声が響く。その突き抜けた気持ちよさを、どう説明するべきか。ともかく、自粛生活を余儀なくされている今、天気のよい日に窓を開けてクレージーを聴いていると、ストレスもスーっと抜けるような気がしてくる。いろいろ大変だけれど、ドンと行こうぜ、ドンとね!

カタリベ: ソウママナブ

© Reminder LLC