メッツが名三塁手・ライトを獲得するまでの軌跡を振り返る

2000年に15勝を挙げてカージナルスとのリーグ優勝決定シリーズではMVPとなり、ワールドシリーズ進出に大きく貢献した左腕マイク・ハンプトンがフリーエージェントでロッキーズへ流失した際に得た補償指名権でメッツが名三塁手のデービッド・ライトを獲得したことはよく知られているが、メッツのライト獲得までのプロセスはどこから始まっているのだろうか。メッツがライトを獲得するまでの軌跡を振り返ると、今から53年前、1967年のドラフトにたどり着いた。

1967年6月、メッツはドラフト全体4位でジョン・マトラックを指名した。マトラックは1972年に15勝10敗、防御率2.32の好成績で新人王を受賞。この年から5年連続で2ケタ勝利をマークするなど、メッツでプレーした7年間で82勝を挙げた。

1977年12月、メッツは四角トレードでマトラックをレンジャーズへ放出。11人もの選手が動いたこのトレードで、メッツはマトラックのほかにジョン・ミルナーも放出(パイレーツへ)し、ブレーブスからウィリー・モンタニェス、レンジャーズからトム・グリーブとカイル・ヘンダーソンを獲得した。メッツにとって大失敗に終わったこのトレードは、メジャー史上初の四角トレードだった。

1978年12月、メッツは1年前に獲得したばかりのグリーブをキム・シーマンとセットでカージナルスへ放出し、ピート・ファルコンを獲得。ファルコンは4年間で26勝を挙げ、ファルコンがフリーエージェントでブレーブスへ流出した際にメッツは補償指名権を得た。この指名権を使い、メッツは1983年のドラフト全体20位でスタン・ジェファーソンを指名した。

ジェファーソンは1986年にメジャーデビューを果たしたが、同年12月、メッツはパドレスとの大型トレードを敢行し、ジェファーソン、ケビン・アームストロング、ケビン・ブラウン(注:通算211勝の右腕ではない)、ショーン・エイブナー、ケビン・ミッチェル(元ダイエー)の5人を放出。アダム・ジング、ケビン・マクレイノルズ、ジーン・ウォルターの3人を獲得した。マクレイノルズはメッツの期待に応えて6年間で122本塁打を放ち、自己最多の99打点をマークした1988年にはMVP投票で3位となった。

1991年12月、メッツはマクレイノルズ、グレッグ・ジェフリーズ、キース・ミラーの3人をロイヤルズへ放出し、ビル・ペコタとブレット・セイバーヘイゲンを獲得。主力級の野手3人を放出して元サイ・ヤング賞右腕のセイバーヘイゲンを獲得したメッツだったが、セイバーヘイゲンは相次ぐ故障により3年半で29勝どまり。決して成功とは言えないトレードだった。なお、ミラーはその後、ライトの代理人かつ最も信頼できる友人の1人として活躍することになる。

1995年7月、メッツはセイバーヘイゲンと後日指名選手(デーブ・スワンソン)をロッキーズへ放出し、フアン・アセベドとアーニー・グーチを獲得。さらに1998年12月、グーチとトッド・ハンドリーをドジャースへ放出し、ロジャー・セデーニョとチャールズ・ジョンソンを獲得した。

セデーニョは1999年に打率.313、66盗塁をマークする活躍を見せたが、エースの獲得を目指したメッツは同年12月にセデーニョ、オクタビオ・ドテル、カイル・ケッセルの3人をアストロズへ放出。ハンプトンとデレク・ベルを獲得した。

そして、2000年オフにフリーエージェントとなったハンプトンがロッキーズと8年1億2100万ドルの超大型契約を結び、メッツは2001年のドラフトにおける全体38位の指名権を獲得。メッツのほか、カブスもライトを狙っていたと言われているが、カブスは全体2位でマーク・プライアーを指名したあと、2巡目まで指名権がなく、メッツは全体18位でアーロン・ハイルマン、全体38位でライトを指名することに成功した。

その後のライトの活躍は詳しく述べるまでもないだろう。オールスター・ゲーム選出7度、シルバースラッガー賞2度、ゴールドグラブ賞2度などチームの看板選手として活躍したライトは、通算1777安打、打率.296、242本塁打、970打点、196盗塁、OPS.867という成績を残して2018年シーズン限りで現役を引退。1967年から始まる52年間の「トランザクション・ツリー」は幕を下ろした。なお、ライトの通算WAR49.2(Baseball-Reference版)は球団史上2位、野手では球団史上1位の数字となっている。

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