<いまを生きる 長崎コロナ禍> “守る”ための別居 心支えた妻の手料理

 「しばらく離れて住むしかなかね」

 4月下旬のある日。佐世保市で建設会社を経営する男性(42)は妻(43)と話し合った。同業者との打ち合わせで福岡県へ出張する直前のこと。福岡では新型コロナウイルスの感染者が増えていた。
 当時、緊急事態宣言が全国に発令中。それ以前から県外への出張は可能な限り減らしたが、やむを得ない仕事もある。自分は感染しても、家族にはうつしたくない-。佐世保でマンスリーマンションを借りた。「当面1カ月」の単身生活が始まった。
 会社を立ち上げて約10年。国外も含め出張は多く自宅を長期間空けることは何度もあった。しかし今回は「1カ月後に自宅へ戻れる保証があるわけではない。(単身生活が)始まった時はとにかく先が見えなかった」。
 地元にいるのに、家族と離れて暮らす日々。従業員の前では普段通り振る舞ったが心中は違った。県境を移動して感染した人への風当たりの強さは新聞やテレビ、会員制交流サイト(SNS)を通じて知っていた。出張した際にもし自分が感染していたら、家族や会社が特定され非難の的になるのではないか。不安が頭から離れなかった。
 男性を支えたのが妻の手作り料理だった。2日に1回、朝食と夕食をセットにしてマンションへ届けてくれている。おにぎりと日替わりのおかずと、サラダ。お米に飽きないようサンドイッチも交互に入る。

妻の手作り料理の写真を見せながら取材に応じる男性=佐世保市

 接触を避けるため、毎回そっとドアの前に置いていくだけ。顔は合わせない。「でも食事の包みを見ると感慨深くてね。きょうも来てくれたんだなと」
 たまに、長女(16)が電話口で冗談を言って和ませてくれる。「いつの間にか成長したんだなあ」。離れているからこそ気付けることだってある。一人の部屋で、弁当をつまみながら、家族との「日常」の価値もかみしめる。
 妻と決めた単身生活も残り1週間。「自宅に帰れたときの気持ちは言葉にならんでしょうね」。男性は指折り数えてその日を待っている。


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