「旧城山国民学校校舎」 一部は戦後建設 1枚の写真が決め手に

 国指定史跡「長崎原爆遺跡」の一つ、「旧城山国民学校校舎」(長崎市城山町)の一部が戦後に建て直されたものであることを、長崎市被爆継承課の奥野正太郎学芸員が確認した。決め手になったのは1枚の写真だった。

新たに見つかった写真を説明する奥野さん=長崎市、長崎原爆資料館

 写真は長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)初代会長、杉本亀吉さんの遺族が4月に長崎被災協へ寄贈した遺品に含まれていた。撮影時期は1949~51年とみられ、撮影者は不明。校舎復旧に向け、階段棟に接する北側の校舎が解体されている様子が写っている。
 奥野さんは約6年前から被爆校舎の国指定に関する調査を通して、教室棟の一部は被爆後に建て直された可能性があるとみていた。市が所有する被爆直後の校舎の写真(45年撮影)と、改修工事後の校舎の写真(55~57年撮影)を比べるなどしたところ、窓の形や教室棟の高さ、教室棟と階段棟の内部のコンクリートの打ち方が異なっていたからだ。

被爆直後の旧城山国民学校校舎(長崎市提供)

 ただ、市立城山小の記念誌「平和」(76年発行)には、48年11月から51年9月にかけ改修工事が行われた記録はあるものの、具体的な内容や写真はなかった。今回、奥野さんはこれまでの情報を総合し、教室棟の一部は被爆後に建て直されたもので、79~84年の城山小の現校舎建設時に大半が解体され、一部だけ残されたと結論づけた。

改修工事後の校舎の写真(長崎市提供)

 杉本さんは被爆時、城山地区の町内会役員で戦後は市議となり、城山小の復興後援会の会長も務めた。同校の代表的なモニュメントのひとつ「少年平和像」の建設を計画し、復興に大きく携わった。長崎被災協に遺品を寄贈した杉本さんの息子、浩太郎さん(72)は「過去を未来に引き継ぐため寄贈した。新発見があり、うれしい」と話した。
 奥野さんは「ほかにも家に被爆に関する資料が眠っているケースはあると思う」と語り、市は長崎原爆に関する研究を進めていくため、市民に情報提供を呼び掛けている。


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