2回で終わったF3オーバル戦。変わっていたかもしれないカテゴリのあり方【日本のレース通サム・コリンズの忘れられない1戦】

 スーパーGTを戦うJAF-GT見たさに来日してしまうほどのレース好きで数多くのレースを取材しているイギリス人モータースポーツジャーナリストのサム・コリンズが、その取材活動のなかで記憶に残ったレースを当時の思い出とともに振り返ります。

 今回は2006年にドイツF3選手権の1戦として行われ、コリンズがこの数十年間で最高のF3レースだったと評する1戦、ユーロスピードウェイ・ラウジッツ(ラウジッツリンク)でのオーバルレース“イーストサイド100”の後編です。

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 2006年のドイツF3選手権オーバルレース“イーストサイド100”のレース1が終わると、地元のツーリングカーによるサポートレースがロードコースで行われた。グリッド上にはトラバントやラーダ、そのほかひどい状態の旧東側のマシンが揃っていた。

レース1後に行われたサポートレース

 このサポートレースについては、あまり記憶に残っていない。覚えているのは1台のトラバントが横転したものの、マーシャルたちに押し戻されてまた何事もなかったかのように走り出したことくらいだ。

前日のレース1でマシンフロントにダメージを負っていたニコ・ヒュルケンベルグ

 翌日に行われたF3のオーバル戦レース2は、レース1と同様に非常にエキサイティングで、僅差でのフィニッシュだった。フェルディナンド・クールのローラがダラーラの一群と、さらに改善したニコ・ヒュルケンベルグのリジェを背にして優勝した。

 ヒュルケンベルグは前日のレースでスリップストリームの使い方を学んだようだった。私と同じように前日夜に北米のオーバルレースを見ていたのかもしれない。

 そして、このイーストサイド100の週末に起きた出来事で、もっとも私が忘れられないのが2日目のレース前に行われたセレモニーだ。ほぼすべての地元団体やクラブが、1万5000人の観客を前に、スタート/フィニッシュのストレートに沿ってパレードしたのだ。

レース2前に行われたパレード

 ラジコンカー、バレリーナのクラブ、パン屋まで、あらゆるグループが出ていたようだった。グリッドガールたちは東ドイツの伝統的な衣装に身を包んでいたが、それは7月の厳しい暑さには適しておらず、非常に暑そうだった。

2006年ドイツF3“イーストサイド100”。スタンドはほぼ満員と言える状態

 パレードの最中、そこにいた伝統的な狩猟クラブが、驚くほど大きな音を立てる銃を発砲した。その時、メイングランドスタンドで私の近くに座っていた多くの年老いたドイツ人男性たちが、立ち上がってナチス式の敬礼をしていた。あの瞬間、ドイツ・ラウジッツは自分の故郷からずいぶん遠い場所に感じられたし、この日イギリスへ戻れることを嬉しく思った。

■一時議論されたF3へのオーバルレース積極導入。イギリスや日本でも

 当時F3では、将来的にさらに多くのオーバル戦を開催してはどうかという議論が繰り広げられていた。もし実現できれば、ヨーロッパで育ったドライバーたちが北米に渡り、インディカーなどに参戦する前に、オーバルでの実戦経験を積むことができるからだ。

 また主要なF3ナショナルチャンピオンシップが行われているイギリスにはロッキンガム・サーキット、日本にはツインリンクもてぎにオーバルコースが存在していたこともオーバルレース導入論を後押ししていた。

 しかし、イーストサイド100の週末にフォスターが起こしたクラッシュを考えると、安全性について深刻な懸念があるのも事実だった。もしF3がオーバルレースを続けるなら、マシンにはアンチイントルーションパネル(ドライバーの脚部を保護するためのパネル)を装備する必要があったし、よりマシンも強固で安全なものにしなければならない。

 最終的に、こういった追加の安全策は施されず、F3でオーバルレースが定着することもなかった。

 個人的には安全対策はそこまで大掛かりなものにはならないはずだと感じていた。実際、オーバルレース導入に反対したのは、オーバルキットにかかる余計なコストを負担したくないチームだろう。こうしたチームはF3で追加の開発を行いたいと思っていないようだった。

 実際に2008年以降、F3はますますワンメイクチャンピオンシップへの一途を辿っており、トップに位置づけられるクラス(FIA-F3)はF3という名前だけがついたスペックシリーズになっているほどだ。

 それに比べればF3の地域バージョンであるF3リージョナル(F3R)は多少マシと言える。シリーズに異なるシャシーコンストラクターとエンジンビルダーの参加を許していることがほとんどだからだ。

 いずれにせよ、F1で併催されるFIA-F3を見るたび、もしくはF3Rマシンを見るたびに、私は2006年7月のユーロスピードウェイ・ラウジッツを思い出す。そしてF3と呼ばれるものが、かつてどれほど素晴らしかったかを思い出し、少し悲しくなる。

 ラウジッツで行われたF3オーバルレースは、ドイツF3はもちろん、F3というシリーズの歴史のなかでも頂点に位置するものだったと思う。ドライバーによるコース上での争いはもちろん、チームが繰り広げたエンジニアリング面でのバトルが懐かしい。

 またイーストサイド100は、私に「F3は実際、なんのために存在するのか」という疑問も投げかけてきた。若手ドライバーを育成するところなのか、それともエンジニアが切磋琢磨するところなのか。私が導き出した答えはF3はその両方であるべきだというものだ。

 しかし、F3の将来を決めるにあたり、すべてのドライバーが公平な装備を持って戦うべきだと“個性のなさ”を求める人々の声が勝ってしまったのだと、私は思っている。

2006年ドイツF3“イーストサイド100”

 ちなみにイーストサイド100以降、ユーロスピードウェイ・ラウジッツのオーバルコースでレースが行われることはなかった。またラウジッツ自体もデクラ(DEKRA)が買収したため2017年限りで一般営業を終了。現在は年に1回だけ、DTMドイツ・ツーリングカー選手権のシリーズ戦を開催している。

 また北米圏外のオーバルコースとして著名な場所だったイギリスのロッキンガムは閉鎖され、もてぎのオーバルは2011年に起きた東日本大震災の影響で大きなダメージを負い、実戦で使用されることは、ほとんどなくなってしまった。

 私は今もときどき、もしF3がオーバルレースを本格採用していたら、そしてその波がドイツにとどまらず、イギリスや日本にも及んでいたらどうなっていただろうかと考える。もしそうなっていれば、F3は今よりもっといいものになっていたはずだと思えてならないのだ。

 またイーストサイド100のレースウイーク初日にクラッシュしたジョーイ・フォスターのキャリアについても考えてしまう。2006年、彼はもう少しでシリーズチャンピオンに手が届きそうだったが、イーストサイド100でクラッシュしたことで実質的にレースキャリアの終わりを迎えてしまったように思えてならない。

 あのクラッシュで、フォスターは背骨を折って6カ月の入院を余儀なくされ、その後にリハビリを行わなければならなかった。後年、彼はル・マン24時間にお世辞にも競争力があったとは言えないLMP2マシンで参戦した。

 あのとき、フォスターは世界最高レベルの実力を発揮することはできなかったが、もしイーストサイド100でクラッシュしていなければ、彼はF1にたどり着けたのではないかと、私は思っている。

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サム・コリンズ(Sam Collins)
F1のほかWEC世界耐久選手権、GTカーレース、学生フォーミュラなど、幅広いジャンルをカバーするイギリス出身のモータースポーツジャーナリスト。スーパーGTや全日本スーパーフォーミュラ選手権の情報にも精通しており、英語圏向け放送の解説を務めることも。近年はジャーナリストを務めるかたわら、政界にも進出している。

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