
一瞬の美しさを愛でる5月。
梅雨に入ると樹々は柔らかな緑から一気に青さを増し、うっそうと茂って葉陰を作り、真夏の暑さに備える。だから5月の緑を堪能するならば今だけだ。
緑の風が吹くこの時期に、どこへも出かけられない私は、何もやらない事を決め込もうと思う半面で、なぜか自分から一番遠くに追いやっていた大掃除という大仕事に挑む。
やると決めたらとことんやるのが私の性分。
何十年も開かずにいた箱。本棚の隅々、たんすの裏までひっくり返し、ひっそり積もった物たちと対面した。
家中の窓という窓を開け放つと、愉しげなツバメの声に混じって、普段日中から聞こえてこない夫婦げんか、Zoom会議の音声などが聞こえてくる。
非日常かと思っていた自粛生活が日常化してきたということか。いやまさか。
ベランダの植物たちと対話しながら、私は、ふとあることに気づいた。
既成概念から脱却しなければならないと。

新型コロナウイルス禍によって、仕事や生活も見直されるご時世。
今まで確かだと思い込んでいた概念を抜き取ってみることを考える。
〝概念を抜く〟なんて黒沢清監督の映画『散歩する侵略者』(2017年)じゃないけれど、私たちは案外、既成概念にとらわれすぎなのかもしれない。
家の中を猫のように歩きまわると、物量の多さにあらためて気づく。
体調が芳しくないと、物の整理には到底追いつかない。さりとて、これらの物量に囲まれて生きることには息が詰まりそうだ。
がん闘病時は本当に死を覚悟していたので、自分の物を全て整理した。
闘病後、元気になって復活してゆくうちに、またいろんなものが増えてゆく。
女優以外の表現として執筆や音楽活動なども始めた私には、見たこともないような出版関係の資料や楽器やら何やらが増えていった。
何版ものゲラの束や写真のポジ。資料ファイル。楽器のケース。楽譜のコピーの山。私の人生ってなんてジャラジャラしているんだろう。
クロゼットに眠る奇抜な衣装たち。
たとえそれがどんなハイブランドであっても、体重42キロ時代の若かりし肉体を包んだ服をヒラヒラさせることもないだろう。
男の腕を借りて歩くための細くて華奢なハイヒールも不要だ。そう思うと、迷いもなく処分できた。
それでもまだ奇抜な服は残っていて、もうこれはどうしたものかと悩んでいる横で、一番奇抜な存在が一日中家にいることに気づいたりする。テレワーク中の夫である。
夫とはこんなに四六時中一緒にいたことがない。
どんなに長くても2週間。そう、新婚旅行でブリュッセルからスペインに行き、イビサ島やバルセロナで過ごしたあの2週間が最長だ。

そのハネムーナーですら、ガウディのグエル公園へ行く途中でけんかをした。理由は地図だった。
地図が好きで、旅先では必ず空港か駅のキオスクで地図を買い、まずは開くことからワクワクする私だが、彼は一切何も見ない。
見ないからといって、土地勘があるわけでも、勘がいいわけでもない。方向音痴だし、いつだって行き当たりばったりで適当だ。
それも時にはいいだろう。だけど、滞在日数が短い旅の場合は、まずは地図だ。
地図を読みながら、距離を測り、大まかな建物を目安に動く。
案の定、夫は地図など当てにしない。適当にヘラヘラ歩いている。
ちょっと物騒な裏道だったが、私は夫に一緒に歩きたくないと宣言し、スタスタ先へ急いだ。
目つきの悪い〝ガン飛ばしの依子〟は自他ともに認めるところなので、スキがあるわけではないはずだ。
でも、海外では女がひとりでいるだけで、男は声をかけてくる。ラテンの国では、声をかけないと女性に悪いとでも思っているのだろうか。

ホテルのロビーでドレスアップして階段を降りる私の脇に、ロマンスグレーの爺様が「お手をどうぞ」と映画ばりに現れたこともあった。
「夫がすぐに来ますから」と断ると、やがて駆けつけた夫に「あんな美しい女性をひとりにさせてはいけないぜ」と耳打ちしていた。
もう忘れていた旅の記憶のそんなこんなを、山のようにある過去の写真の一枚から思い起こされるのだから、写真というのは面白い。
それにしても「思い起こす」という行為はなんなのだろう。
山のような写真を前にふと、この人と過ごした何十年かをしみじみと振り返る。
こんな機会も珍しい。
現在、近くにいて家族と呼べる存在は夫のみ。
思えば、親以上に暮らしている時間も長くなった。
そして今、結婚20年以上で初めて、こんなに長い時間一緒にいるのだ。

ある日、私は思い立った。
今までの役割の概念を抜き取ろう 。
私が家庭内でやってきたことを少しずつ彼にやらせてみた。
料理、洗濯、掃除………。
私はその間、本や書類の整理、ベランダの植物の手入れに明け暮れ、疲れたらいつでも自由に横になり体を休めた。
パーソナル・ディスタンス(個体間距離。縄張り)
無意識に保つそれを、あえて変えてみる。
ここではない場所へ移る。
最初はちょっとどうかとも思うのだが、だんだんこれが新鮮でなかなか良い。
目線を変えるという感覚にちょっと似ているかもしれない。
こうしてなんだかんだ、夫とつまり家族という奇妙な呪縛から、自分の居場所を 考える。
あとどのくらい生きるのかわからないが、50年はないだろう。
残された時間は案外短いのかもしれない。
部屋の隅から、ひょっこりと古いノートやメモが出てくる。
そこに書かれているのは、今とさほど変わらない「私は私よ」という気持ち。
『天井桟敷の人々』の脚本家としても知られる詩人ジャック・プレヴェールの詩を歌うグレコのような気持ち。
ジャック・プレヴェールの詩集『言葉たち』を翻訳したアニメーション作家・高畑勲氏は書いている。
「プレヴェールはまずなによりも自由と友愛の、そして徹底した反権威・反権力の詩人だった。彼はあらゆる支配や抑圧や差別に反対し、戦争や植民地支配を憎み、人間性の解放と自由を擁護して、抑圧されたものたちへの友情と連帯を歌った。それは子ども、女性、移民から動物たちや植物にまで及び、さらに早い時期から月や太陽、海や大地を筆頭に、あらゆる森羅万象に対する敬愛を呼びかけた」
部屋の整理をすることで、眠っていたプレヴェールの言葉が私の記憶の中に鮮やかによみがえった。まさに、私が求めていた言葉だった。
今回のコロナ禍で、いつもと違う風景を見られたこと、そこに自分を置けたことは、ちょっとスリリングな体験だった。
できる限り自然に触れ、丸い愛らしい曲線を帯びた花や動物を愛し、当たり前のことをする日常 にプライオリティーを置きたい。
朝は陽の光とともに目覚め、衣をまとい、何か食べて、体や脳を少し動かしてみる。疲れたら眠る。夜が来たら眠る。平常心を心掛け、穏やかに過ごす日々。
そして、プレヴェールの詩のように、「私は私よ」と声をあげて生きてゆきたい。 (女優・洞口依子)
