多チャネル体制で日本は兄弟車だらけ
大変失礼ながら、マツダには幾重にもピンチの時期があった。その代表例がバブル崩壊の時。遡ること30余年前に販売チャネルの拡大を図ったのが始まりだ。
1980年代終わりから90年代にかけて、自動車メーカーは販売チャネルを凌ぎを削るように広げていた。
トヨタに日産、三菱までが多チャネルで勝負
トヨタを例に出すと、トヨタ店・トヨペット店・ビスタ店(現ネッツ店)・カローラ店の4チャネルだ。それはトヨタだけでなく、日産やホンダ、さらには三菱までもが多チャネル戦略を図っていた。
マツダはトップの5チャネル体制に……
それはマツダも同じで、ピーク時にはマツダ店・アンフィニ・ユーノス・オートザム・オートラマといった具合に“トヨタよりも多い”5チャネル体制を取っていたのだ。時はバブル絶頂期! 皆が浮かれていた時代だけに仕方ないとしても、その全店で年間販売台数100万台という大胆な目標を掲げるなど、無謀な作戦にでたのだ。
多チャネル体制の目的って?
多チャネル体制の最大の狙いは、販売力のアップにほかならない。中身は同じだが、ガワを変えた兄弟車を設定することで、低コストで車種を増やすというイメージだ。一から開発するよりもコストが抑えられるため、簡単に商品を増やすことが可能ってワケ。
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バブル崩壊でマツダ大ピンチ! 経営権も奪われた90年代頭
1992年にバブルが崩壊すると、分不相応な5チャネル体制がアダとなり、掲げていた目標の100万台なんて夢のまた夢状態に。販売不振に陥ったマツダは、1996年に米・フォードに経営権を握られてしまう事態にまで、厳しい状態になってしまったのだ。
デミオはコスパ最強! 短期間・低予算でバカ売れ
当時のコンパクトカーは狭く、使い勝手はイマイチだった
新規車種の開発が厳しい中、起死回生の一手を打ったのだ。それが、あの初代デミオ。もちろん0から開発する資金がないために、既存車種のプラットフォームなどを利用し、短期間で開発された、いわば“急ごしらえ”のクルマであったのだ。
1996年当時にあった国産コンパクトといえば、日産 マーチやトヨタ スターレット、三菱 ミラージュなどだが、正直車内はそれほど広くないなど、使い勝手はそれほど……というイメージであった。
そこでデミオはライバル車よりも車高を10cm程度高くし、室内空間のパッケージングを全面的に見直した。
マツダを救うほどの大ヒットに
背を高くすることで、短い全長ながら大人4人がしっかり乗れる広さを確保。椅子を倒せば自転車が詰めるなど、荷室も十分なスペースを取ることが出来たのだ。
現代では当たり前ともいえるが、そんな“コンパクトカーの基本”ともなるカタチを作り上げた。
加えて立体駐車場にも収まるサイズ、しかも新車価格は手ごろな95.9〜165.3万円とするなど、セールスポイントてんこ盛りの1台となり、初代デミオは見事大当たりした。
そんなイイとこだらけの初代デミオは、上級車種や軽自動車からの乗り換えなど、多くのひとに愛され、その年日本カー・オブ・ザ・イヤー特別賞を受賞するなど大ヒット。その収益もあって、見事に経営危機を脱出した。
デミオはマツダの救世主と呼ばれるまでになったのだ。
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この危機を脱したマツダは、MPVなどのミニバンから、RX-8やロードスターといったマツダならではの設計開発や魂動デザイン、スカイアクティブ技術により、トヨタに技術提携を持ちかけられるまでに復活。かつて初代デミオの斬新なアイデアで危機を乗り切ったマツダだけに、また起死回生となるようなワクワクする発想のニューモデルが登場してくることに大いに期待したい。
【筆者:MOTA編集部 木村 剛大】