黒川検事長はどうするんだろう。いま、なにを考え、どんな気持ちでいるんだろう。
検察庁法改正に反対するツイッター世論が高まったころから、ずっと気になっていた。わたしは黒川弘務さんに取材したことがない。面識もない。でも、渦中の人の「いま」と「これから」が知りたかった。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)
■早晩辞職するだろう
1月末の定年延長は法解釈の原則に反していた。批判を浴びると、政府は「閣議決定で解釈変更した」と強弁して押し切った。法律の専門家である黒川さんは、それが「無理筋」であることを百も承知だったに違いない。自らの地位に法的根拠が欠けるという事態に、足元を揺さぶられるような思いだったのではないか。
それを事後的に合法化する検察庁法の改正案に、反対するツイッターデモが盛り上がり、数百万のオーダーに達した。これらは実質的には、黒川さんの検事総長就任に反対する声だった。巨大な民意の前で、彼はたじろいだはずだ。
法務省官房長を務めた堀田力さんは、5月14日の朝日新聞朝刊で黒川さんと検事総長に「自ら辞職すべき」と迫った。翌日、ロッキード事件で赫赫(かくかく)たる戦果を収めた元検事総長らが、法改正に反対の意見書を出した。「正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない」と。
社会正義を実現するべき検察官でありながら、不正義の片棒を担いでいるとみなされている。追い詰められたと感じたはずだ。
伝え聞く彼の人柄は、明るくユーモアがあり、物腰も柔らかだという。そんな人が地位に恋々として居座ったりできないのではないか。早晩、辞職するに違いないと予測した。
■インタビューはルール違反
週刊文春5月28日号の「賭けマージャン」スクープに、二つの意味で驚いた。
黒川さんはおそらく、文春の取材を受けるまで、この事態になんら痛痒(つうよう)を感じていなかった。追い詰められてもいない。辞めることは毛頭、考えていなかった。
そうでなければ、ふだん通りの時間・場所で、ふだん通りのメンバーで、ふだん通りにマージャンを楽しめるはずがない。わたしの尺度で彼の心中を推し量ったのは、まことに愚かなことだった。
もう一つは、驚きというよりむしろ落胆というべきかもしれない。ここまで親密になっているのであれば、記者たちはどうして黒川さんの近況と心境をリポートしようとしなかったのか。わたしも含め、誰もが知りたかったことだと思う。
だが、落ち着いて考えてみれば、彼らはインタビューなんて思いもしなかったと思う。インタビューという行為は社会に開かれていて、社会性・公共性を帯びる。それを意識した瞬間、その会合の秘密性、言い換えれば非公共性と、賭博行為の違法性を照らし出さずにはおかない。
会合自体が一種の共犯関係によって成り立っているのだから、そこに社会性を持ち込むことは、その場を支配する見えないルールに違反する。
そのルールは帰りのハイヤーにも、緩く浸透していただろう。同乗した記者が何かを問いかけたとしても、ルールを破壊するようなことまでは聞けなかったと思う。そして、そのルールに守られている以上、黒川さんも踏み込んだことは答えなかったはずだ。
でなければ、次のマージャン会合はなくなってしまう。
■特ダネは墓場まで持って行く
何らかの外部的事情によるのでなく、記者が自ら目の前の特ダネを見送るのはどんなときだろう。そのとき、記者はどんな思いなのだろう。そんなことを考えるうち、まだ若手といってもいい時代の一場面がよみがえってきた。
そのころ、本社で大きな取材チームが組まれ、地方から多くの記者が動員された。わたしもその一人だった。その長期出張で、ある先輩記者と親しくなった。彼は時の政権の中枢に深く食い込んでいるらしかった。
ある日、深夜のクールダウンの時間に、彼とわたしはホテルのバーで向かい合っていた。どうしてそういう話題になったのか。彼は「たとえ政権が代わっても、そのときの政権が倒れるようなネタを四つ持っているんだよ」と言った。自慢めいた感じではなく、ただ事実を淡々と述べるといった調子だった。
それまでに、彼がどのようにして政権中枢に接近し、どんな関係を築いているか聞いていたから、それは本当なのだと思った。だから少し冗談めかして頼んだ。「だったら、そのうちの一つでもわたしにください」
返事はあっさりと。「いや、墓場まで持って行くよ」
そのことはそのとき1回だけ話題にのぼり、蒸し返されることはなかった。だから彼がいま、どう考えているかは分からない。そのネタがその後、どうなったのかも知らない。
そのとき思ったのは、彼は「あちら側の人」なのではないかということだった。
■不起訴の理由も説明しない
検察官は起訴・不起訴を判断する権限を独占する。その権限を中核にして検察組織は、捜査から公判終結に至るまで、刑事司法全体を事実上、支配している。
本来、捜査・訴追する側と被疑者・被告人側は対等であるべきだが、日本の現状はそうなっていない。「人質司法」はカルロス・ゴーン氏の事件で国際的に有名になった。家族との面会はもとより、弁護士との接見さえ自由にはさせない。
何より情報を握っている。強力な捜査権限によって集めた証拠は、法廷にも全部は出さない。記者に対してはほとんど説明しない。節目となる起訴・不起訴の発表でも、起訴なら起訴状を示すだけ、不起訴の場合は結論しか言わないことが多い。
ことし4月1日から30日までの共同通信配信記事から、不起訴処分に関する原稿を抜き出し、容疑者死亡や司法取引による不起訴を除くと37本あった。うち26本の記事に、文言は多少異なるが、「地検は理由を明らかにしていない」と書かれている。
理由に触れている11本も「嫌疑不十分」とか「諸般の事情を考慮した」「起訴するに足る証拠がなかった」といった形式的説明がほとんどだ。
不起訴を報じるケースは、事件発生や捜査着手のときにニュースにしている。そのままだと社会的に宙ぶらりんの状態が続くから、捜査の結論を報じるのだ。
言うまでもなく捜査には税金が使われる。その結論について、納得のいく説明をするのは当然だと思うが、その当たり前が検察庁には通じない。いったんは容疑者とされた人の名誉回復のためにも、絶対に必要なはずだが。
■干渉や忖度はあったのか
説明しない検察とメディアの闘いは、非公式な場面に移行する。理不尽なほど壁の厚い検察組織を切り崩し、個々の検察官に少しでも接近するために、記者たちは力を尽くす。
一番いい方法は、敵に擬態し、味方だと誤認させることだ。だから、記者たちは取材対象の組織のスラングまで使いこなす。それは他の分野でも同じだ。警察官と同じようなものの見方をする事件記者、永田町にいる方が似合うような政治記者も時に見かける。そういう記者の方が「優秀だ」と評価されたりする。
マージャン会合の3人は、壁を切り崩して敵陣に入った。それによって、個別事件の処理の方向性や人事の構想などをつかみ、十分、もとを取ったのだろうか。それで満足し、「こちら側」に戻れなくなったのかもしれない。結果的にその姿は、市民の方を向いていない検察と相似形に見える。
彼らに、まだできることはあると思う。長年にわたる会合の中で聞いた事件に関する説明や、知り得た検察組織の内実を、今からでも市民に届けてほしい。
特にここ数年、政治家絡みの案件で不起訴が相次いだことに、政権の干渉はあったのか、あるいは黒川さん自身が忖度して動いたのか。記者たちがもし、黒川さんの言葉を引き出しているなら、ぜひそれを明らかにしてほしい。
同じ記者としても、一市民としても、そう願っている。