知ってた?!「本能寺の変」のきっかけは奈良のとある地域から

 毎週月~金曜日 ゆうがた5時30分から放送している奈良テレビの「ゆうドキッ!」。今回は様々な角度から奈良を知るエキスパート・奈良まほろばソムリエの松永さんに「奈良の雑学」を教えていただきました。

 テーマは「椿井城(つばいじょう)に関わる2人の戦国武将」です。奈良の歴史を勉強された方は、すぐに思いつく戦国武将の名前があると思います。

椿井城は平群にある城跡です。奈良といえば古代史と思われている方も多いですが、実は奈良県内には400ヵ所以上の城跡があり、特に平群から王寺あたりは、戦国時代の転換期の大きな舞台になった場所です。また、築城には松永久秀(まつながひさひで)や嶋左近(しまさこん)が関わったのではないか、と言われています。

最近では、俳優の吉田鋼太郎さんがドラマで松永久秀を演じられて、話題になりました。

しかし、松永久秀というとイメージが悪い方もいらっしゃるとか思います。久秀は平群町にある信貴山城に居城していた戦国武将で、大和を支配していた、東大寺大仏殿を焼き討ちしたなど、極悪人のように言われています。最近では研究が進み新たなイメージが増えており、奈良市の多聞山城(たもんやまじょう)の築城などは、織田信長の安土城の築城や明智光秀に非常に大きな影響を与えた、とも言われています。

色んな武将に影響を与えているんですね!

戦国時代は、織田信長や豊臣秀吉が中心になっていますが、この2人を先駆けたのが、松永久秀、三好長慶(みよしながよし)だと言われているため、後々の時代にかなりの影響を与えた人物と言えます。

特に、織田信長や明智光秀には多大な影響を与えました。信長の家臣だった久秀が信長に謀反を起こした5年後に「本能寺の変」が起きたことから、久秀の姿が光秀の謀反にも影響した可能性があると言われています。

信貴山上の戦いでは信長が「信長オールスターズともいえる、羽柴秀吉(はしばひでよし)、細川幽斎(ほそかわゆうさい)、明智光秀(あけちみつひで)、筒井順慶(つついじゅんけい)、織田信忠(おだのぶただ)」を総動員して平群に集結し、久秀を攻めに来たことから、「本能寺の変」のきっかけは平群からはじまったと考えることができます。

この久秀の行動は「信長に対して謀反を起こすことができるのだ」ということを光秀に気づかせてしまった出来事でもあるため、平群、王寺を舞台にした場所が本能寺につながる大きな時代の転換期になったと言えます。

では、嶋左近と椿井城にはどのような繋がりがあったのか?嶋左近は平群町出身で、久秀が滅んだ後、椿井城に居城したと言われています。非常に優れた武将であったため、石田三成が何度も頼み込んで家臣になってもらい「三成に過ぎたるもの、島の左近に佐和山の城」とも言われていました。

そして、ほぼ負けると分かっていた関ケ原の戦いでも、左近は最後まで三成につき、壮絶な最期を遂げた名将だったと語り継がれています。

椿井城の登城口には平群町のマスコットキャラクターである「左近くん」の看板が立っており、少し登ると、左近が使っていたとされる三つ柏の紋が描かれたのぼりがあります。松永さん曰く「お昼でも薄暗く、今にも落ち武者がでてきそうな雰囲気で、堀切のあとも残っており、特に城跡好きの方には見どころ満載の場所」だということです。

さらに、頂上まで登ると、平群谷が一望出来、春先だと桜に彩られた竜田川も良く見えます。戦国に名を残す武将たちとほぼ同じ風景を見ることが出来るので、戦国武将が当時どのような風景をみていたのか?といった歴史を体感できる場所になっています。

歴史を体感をしながら、久秀や左近がどのような人物だったのか、と考えるのは面白いですね!

最近の研究では、この2人の武将、特に松永久秀の捉え方は変わってきています。久秀の人物像は真逆なものもあり、城郭研究を行なっている千田嘉博先生によると「信貴山城の城跡を見ると、久秀の屋敷は家臣と殆ど同じ目線にあることから、家臣思いの人物だったのではないか?」とも言われています。

このような歴史を知り、ポイントを抑えて城跡巡りをするとより一層楽しめそうですね。

※この記事は取材当時の情報です。

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