元ヤクルト助っ人リグス氏が語る日本愛 活躍を支えたラミレス監督の存在

当時ヤクルトのラミレス監督、広島のラロッカ氏と写真に収まるアダム・リグス氏(右)【写真:本人提供】

「ラミレスがいなかったら、3か月以上は日本にいられなかった」

ヤクルトで2005年から4年間、強打の内野手として活躍したアダム・リグス氏が、Full-Countのインタビューに応じた。本塁打を放った際にお笑い芸人・猫ひろしの一発ギャグ「ニャー」のものまねを繰り出すのが“お約束”で人気を集めたリグスさんが、日本での全てを明かす。

「日本でプレーしたのは、間違いなく正解でした。日本で過ごした4年間が、私の人生で最高の4年間と言っても過言ではありません。最も良かったのは、生涯の友達をたくさん作れたことです」

熱く語るリグスさんは現在、米テキサス州ヒューストン郊外のザ・ウッドランズという街でプロアスリートの“第2の人生”をサポートする会社を営むかたわら、デイリークイーン(米大手ファーストフードチェーン)の店舗も経営している。現在47歳。「日本での4年間の経験から、自分と異なる文化や背景を持つ人々に共感できるようになりました。この経験を生かして現役、OBを問わず、さまざまプロスポーツ選手を日本に招き、イベントやテレビに出演させることができたらいいですね」とプランを描いている。

メジャーリーグでは実働4年で通算61試合出場とパッとせず、32歳でヤクルト入りした。1年目の2005年は、当初こそ日本の投手に戸惑って開幕2軍スタートとなったが、徐々に順応。規定打席数には足りなかったものの、打率.306、14本塁打をマークした。圧巻だったのは翌2006年で、当時の古田敦也プレーイングマネジャーに“バントをしない2番打者”として起用され、打率.294、39本塁打、94打点と大活躍。オフには新たに2年契約を勝ち取った。

「日本と米国の1番大きな違いは投手でした。私がメジャーでプレーしていた頃、大多数の投手はシンカー、スライダー、チェンジアップくらいしか投げませんでした。しかし日本では、ほとんどの投手がフォーシームの真っすぐ、スライダー、カーブ、チェンジアップ、フォークボールを投げてきました。米国ではストレートさえ打てれば成功できましたが、日本ではそうはいきませんでした」

プロ野球での最高の思い出は延長10回サヨナラ弾「後ろにガンちゃんがいてくれたおかげ」

日本での最高の思い出は2006年6月2日、オリックス戦(神宮)の延長10回2死で左腕・山本省吾から放ったサヨナラ弾だという。「二塁に青木(宣親外野手)がいて、通常であれば私を歩かせて次の打者で勝負するところでしたが、ネクストバッターズサークルにガンちゃん(岩村明憲内野手=現BCリーグ・福島監督兼球団社長)がいたので、相手は私と勝負してきました。真っすぐを狙っていたのですが、スライダーが来て『やられた』と思いつつバットをできるだけストライクゾーンに残すつもりでスイングしました。幸運にも左腕1本でボールをとらえることができ、打球はレフトスタンド中段へ。ファンは大騒ぎでした」。記憶は今も鮮明で「もしガンちゃんが私の次に控えていなかったら、あの状況で相手が私と勝負してくることはなかったでしょう。後ろに彼がいてくれたおかげです」と感謝を口にするのだった。

4年間で数々の外国人選手とも同僚となったが、特に仲が良く、リグスさんに大きな影響を与えたのが、現DeNA監督のアレックス・ラミレス外野手。「ラミとは兄弟のようでした。米国、日本でプレーした中でも、彼が“ベストチームメート”です」と断言するほどだ。「私が不調の時は、いつもアドバイスをくれて、常にポジティブでいられるように声をかけてくれました。ラミがチームメートでなかったら、日本に3か月以上はいられなかったと自信を持って言えます」と感謝の言葉は尽きない。
当時のグラウンドを離れてのエピソードも披露してくれたリグスさん。「オープン戦の時期にラミと私で青木をキューバ料理のレストランに連れて行ったことがあります。サルサミュージックが演奏されている店で、食後にラミが青木にサルサダンスを教えました。あれは楽しい夜でした」と懐かしそうに振り返った。

翻って、今後日本でプレーする外国人選手に向けて「『自分の能力を最大限に発揮することに集中し、米国と日本の些細な違いにこだわらないように』と言いたいです。彼ら自身がコントロールできるのは、日々どれだけ一生懸命練習するかと、どれだけ一生懸命プレーするかだけです。コントロールできないことを思い悩んでも、フラストレーションがたまるだけです」と熱弁を振るう。

そして、「日本でプレーすることは、限られた人しか経験できない特権です。感謝の気持ちを持って、日本での時間を楽しんでほしいです。その時間にもいつか終わりが来ますから」と付け加えた。リグスさん自身、ヤクルト時代には「毎日のように東京のあちこちを歩き回りました。試合のない月曜日には地下鉄に乗り、知らない街を探索しましたよ」。

次回は“ニャー誕生秘話”と、「私にとって特別な存在」という古田氏について聞く。

(取材協力・B-creative agency 亀田恭之)(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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