志磨遼平からのデヴィッド・ボウイ、時代を超えて受け継がれるロックスターの表現 1979年 6月29日 デヴィッド・ボウイのシングル「D.J.」がリリースされた日

デヴィッド・ボウイの柔らかな感性、心の中の “少年”

デヴィッド・ボウイに最近お熱だ。

デヴィッド・ボウイ好きの友達が、外出自粛期間中に、よく LINE で「宇宙人みたいな男の子と恋に落ちたい」といっては動画を送ってきて、私もつられて好きになってしまった。

私たちは、毛皮のマリーズ、ドレスコーズというバンドを組んでいた志磨遼平というアーティストが好きで、そんな彼が “神様” として崇めているがデヴィッド・ボウイなのだ。

こうした背景もあって、この一ヶ月で私のプレイリストには、デヴィッド・ボウイというアーティストが席を占めるようになった。それまで歌謡曲ばかり聴いていて、洋楽はからきし聴かなかった私が夢中になっている。

デヴィッド・ボウイは、独特の雰囲気を纏い、しなやかで優しく、そしてびっくりするほどかっこいい。彼を見ていると、彼の音楽を聴くと、思わず顔が緩んでしまう。その理由は、彼の柔らかな感性がそのまま表現として出ているからだろう。年齢を重ねても心の中の “少年” の部分が全身から出ているから、いくつになってもかわいらしく、時間の流れから外されたような美しさがあるのだろう。キレキレで、前衛的で、別の世界に連れて行ってくれそうな危うさは見る人を魅了する。

洋楽に興味を持ったのが23にもなってからだなんて、少し遅いのかも… なんて思いながらも、蕩けた顔をして今日もデヴィッド・ボウイの動画を漁る私。

シングル「D.J.」のミュージックビデオにみるギャップ萌え

1979年7月29日にリリースしたシングル「D.J.」。このミュージックビデオ(以下、MV)が私のお気に入りの一つで、これもまた先述の友達が教えてくれた曲だ。

DJという職業を題材に、回せない=自己の喪失、空虚な自意識を表現している。回せないDJ。DJである自分。その “居場所のなさ” を音で、歌詞で表わす。そして、破壊衝動に駆られたMVがその世界観を見事に描き出しているのだ。

その友達曰く、「このMVのデヴィッド・ボウイ、自分が通行人にキスされているときはとんでもなく冷たい顔なのに、自分がエスコートするときは色っぽいのって、ずるい」とのことで、確かに人混みを切り分けるようにデヴィッド・ボウイが歩いていくシーンがある。そこでは、ファンとみられる人たちに、熱烈にキスをされるのだが、その姿はまるで氷のように冷たく、それでいて別の星からやってきたように綺麗だ。かと思えば甘い顔で女の子をひょいと抱き寄せてみたりする。このギャップに私たちは弱い。

生き方自体を作品として表現するアーティスト、デヴィッド・ボウイ

「D.J.」のMVで観られるように、トレンチコートに、紫の手袋を身につけて歌うデヴィッド・ボウイはフェティッシュだ。ピンクのセットアップを着て、ガスマスクをつけているシーンもいい。やっていることはハチャメチャ。しかしどれも色っぽくて絵になる。

机の上のものを壊したり、鏡を破るシーンは、おそらく先に述べたアーティスト志磨遼平も「エゴサーチ&デストロイ」という曲の中でオマージュをしていると思われる。この曲もまた “自分とは何か” という空虚さをテーマにしているからだ。デヴィッド・ボウイを神様と呼ぶ彼なら、おそらく意識していることだろう。時代を超えて、ロックスターとして、デヴィッド・ボウイの表現が今に継承されていることに胸が高鳴る。

周りの人と違う、孤高でいて、しなやかなオーラを放つの彼を見ると、“自分だけの物語” をまとっている人は強いのだと思う。どこか空虚で寂しげ。それでいて色っぽい。ここに “いる” ようで “いない” 不思議な魅力……

“自分とは何か” という問いの中で、生き方自体を作品としてクリエイトするアーティストが、私はたまらなく好きだ。

カタリベ: ミシマサイコ

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