源義経に愛された女性。その波乱万丈な人生と奈良の関係とは…

 毎週月~金曜日ゆうがた5時30分から放送している奈良テレビの「ゆうドキッ!」。今回は様々な角度から奈良を知るエキスパート・奈良まほろばソムリエの友松さんに「奈良の雑学」を教えていただきました。

 今回のテーマは、武将・源義経が愛した「静御前(しずかごぜん)の奈良のゆかりの地」です。

静御前は、公家や武家に舞を披露する女性「白拍子(しらびょうし)」で、義経が京都に居た時に知り合いました。その後、源頼朝と対立して京都を追われた義経と共に奈良・吉野へやってきました。奈良にある「静御前ゆかりの地」と言えば、身を潜めた吉野山が有名ですが、他にも奈良県内に「静御前ゆかりの地」があります。それが、静御前の母・礒野禅尼(いそのぜんに)の故郷である大和高田市磯野村です。大和高田の春というと、桜の名所として知られる大中公園が有名ですが、そこに「静御前記念碑」があります。

碑には「しずやしず 賤(しず)のおだまき くりかえし 昔を今に なすよしもがな」とあります。これは「静よ静よとくり返し私の名を呼んでくださったあの昔のように、懐かしい義経様のときめく世に今一度したいものよ。」と詠ったものです。しかし、これを聞いた源頼朝は「頼朝様バンザイと讃えなければいけないときに、反逆の義経を慕い、義経の世になって欲しい…とはどういうことだ。」と激怒します。それに対して、頼朝の妻・北条政子は、頼朝が伊豆に流されている時の、自分の気持ちは今の静と同じであったことなどを説いて、頼朝をなだめたといいます。

続いて、大中公園から少し北に行ったところにある「春日神社」をご紹介します。

この場所は、頼朝の軍勢に追われた義経一行が吉野山に逃れる途中、休憩した場所です。ここには「七ツ石」というのがあり、この石に武将達が腰掛け休憩したと言われています。

突然ですが、ここでクイズを出題します!

こちらは、静御前とは直接関係ないのですが、春日神社の境内に「薬師堂」があり薬師如来が祀られています。このお堂には大工道具の「錐(きり)」が奉納されています。では、なぜ錐が奉納されているのでしょうか?

正解は「耳の病気に御利益があると言うから」です。木などに穴を開ける「錐」から、「耳の穴が通って聞こえやすくなる」という意味で奉られています。

続いて、春日町の「高田南公園」内にある「笠神の杜」をご紹介します。

この場所は、静御前が病気平癒を願い、毎日通った笠神明神があった所です。実は、静御前は義経と別れなければならなかったこと、鎌倉で義経の子を産んだが男の子だったために殺されてしまったことなどから、心が疲れて病気になってしまっていました。 かつては老樒の茂る森でしたが、昭和30年代より民家が建ったために、龍王宮という神社に移されました。

こちらでは「静御前ゆかりの地」として、12月に白拍子舞の奉納があります。

続いて、「静御前衣掛けの松」をご紹介します。これは県立高田高校内にあります。

静御前が病気の平癒を願って笠神明神に日参した折、ここの古墳にあった三本の松の一本に衣を掛けて休んだという場所です。三本の松の二本は枯れ、一本は昭和初期まで残っていましたが、失われてしまいました。現在は新しい松が植えられています。残念ながら、墳丘も高田高校の敷地拡張により除かれてしまいました。また、この地図は「磯野村古地図」と言い、宝暦年間(1751年)に書かれたもので、今も礒野地区に伝わります。

こちらは、地元のボランティア団体「夢咲塾」から古地図の写真をお借りしたものです。ここの古墳の周りに三本の松が描かれており「古代より三本松、天明年中(江戸時代)一本になった」と書かれています。

静御前が大和高田で愛されてきた証拠ですね!

そして、静御前の母親がいる大和高田でいよいよ終焉を迎えることになります。静御前の終焉の地は礒野にある「順照寺」というお寺です。亡くなった後に葬られたのが、こちらの「静御前の塚」です。

笠神明神に日参した甲斐なく、病は癒えず静御前は20歳の生涯を終えたといい、その遺体は字藤ノ木に葬られたといいます。先ほどの「礒野村古絵図」に、その塚が描かれています。

ここには「古来より静御前の塚なり」と書かれており、場所は大和高田市立病院の南西にあります。

このように、大和高田市には「静御前ゆかりの地」が沢山あります。

それぞれの場所も近く、一日で巡れるようですので、大和高田に行かれた際は、是非「静御前ゆかりの地」を散策されてみてはいかがでしょうか?

※この記事は取材当時の情報です。

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