「甲子園に行くために練習するわけじゃない」秋山翔吾、知られざる少年時代の成長秘話

今オフ、埼玉西武ライオンズからシンシナティ・レッズへと移籍した、秋山翔吾。首位打者1回、最多安打4回を記録。日本を代表する安打製造機が野球を始めたのは、実は小学6年生だったことはご存じだろうか?
どんな名選手にも、必ず「少年時代」がある。野球と出会ったばかりのその時期に、いったいどんな時間を過ごしたのか? どんな指導者と巡り合い、どんな言葉を掛けられ、どんな思考を張り巡らせて、プロ野球選手、メジャーリーガーへとたどり着いたのか?
日本球界を代表する選手たちの子ども時代をひも解いた書籍、『あのプロ野球選手の少年時代』(宝島社)を上梓したスポーツライター・編集者の花田雪氏に、秋山翔吾の“知られざる秘話”を明かしてもらった――。

(文=花田雪、トップ写真=Getty Images、文中写真提供=宝島社)

秋山翔吾の少年時代を知る指導者が、口をそろえる言葉

「努力」

言葉にするとたった2文字。

しかし、どんな世界でも、成功者は少なからずこの「努力」を積み重ね、それを結果へとつなげてきた。

プロ野球選手もその例外ではない。

日本だけでも数十万人いるといわれている「野球少年」はその後、中学、高校と年齢が上がるにつれ、ふるいにかけられ、少しずつその人口が減っていく。

もちろん「才能」も重要だが、その上に確かな「努力」を積み重ねることによって、彼らは日本野球界の最高峰であるプロ野球という舞台にたどり着く。

筆者は先日、宝島社から『あのプロ野球選手の少年時代』という書籍を上梓したが、そこで6人のプロ野球選手、メジャーリーガーの「子どものころ」を知る人物に取材を行った。

そのうちの一人が、今季からシンシナティ・レッズへと移籍を果たした秋山翔吾だ。

昨季まで埼玉西武ライオンズでプレーし、日本球界では首位打者1回、最多安打4回を記録。日本を代表する安打製造機にも、多くの野球選手と同じ「少年時代」があった。

小学6年生時に所属した軟式野球チームの湘南武山フェニックス、そして中学校3年間を過ごした横浜金沢リトルシニア。当時の指導者が秋山翔吾の少年時代を語る中で、共通して出てきた言葉が、この「努力」だった。

ソフトボールと野球の掛け持ちも

小学1年生から地元のソフトボールチーム・大津スネークスに入団し、プレーを続けていた秋山少年は、6年生の1年間だけ、湘南武山フェニックスで「掛け持ち」を経験している。

当時からチームの監督を務める田村仁さんは、秋山少年に技術的な指導を行った記憶はほとんどないという。

「翔吾は当時、すでにお父さんと一緒にかなり厳しい練習をしていました。だから、私が横から口を出すようなことはしない方がいいと判断したんです」

秋山翔吾の父・肇さんは幼少期から息子に野球を教え、その礎をつくった。秋山が左打ちになったのも、肇さんの指導によるものだ。

「小学生時代から、プロ野球選手になることを目標に、すでに自分に厳しくすることができる子どもでした。試合中も気を抜かないし、凡ミスをするようなことはまずない。野球に真剣に取り組んでいることは外から見ても十分わかりました。だから1年間だけとはいえ翔吾のことを叱った記憶はないですね」

父から受けた厳しい指導。さらには幼少期から「プロ野球選手になる」ことを明確に目標としていた秋山少年は、試合中のプレーでも練習でも、決して手を抜くことはなかった。

「しかも、ソフトボールと野球の掛け持ちですからね。例えば午前中にソフトボールの試合に出て、午後からは野球の試合に出るようなケースもありました。小学生にしたら、かなり厳しいスケジュールです。試合が被るようなときは6年間所属したソフトボールを優先させていましたが、だからといって『野球』で気が緩むようなことはない。結果としてメジャーリーガーになって、今は手の届かないような大選手になってしまいましたが、私は翔吾は天才ではなく、努力の人、努力の天才だったと思っています」

(秋山は左から2人目。湘南武山フェニックスのユニフォームは、当時の西武ライオンズとそっくりだ)

「魔王の城」へと向かっているような中学時代

中学に進学しても、その姿勢は一切ブレることはなかった。当時プレーした横浜金沢リトルシニアは、指導者自らが「かなり厳しい練習を課していた」と語るように、地域でも指折りの練習量を誇る強豪チームだった。

チーム入団の経緯を、ロサンゼルスで自主トレを行う秋山翔吾にも直接取材したが、その理由を本人はこう語る。

「中学入学前に何チームか練習を見に行ったんですけど、その中でも一番厳しかったのが横浜金沢リトルシニアでした。正直、今では絶対に許されないような、そんな厳しい練習を目の当たりにした。でも、僕はそこにほれ込んで入団を決めたんです」

秋山少年が入団する前年、チームは全国大会に初出場。厳しい練習が結果へと結びついたタイミングでもあり、本人も「あの(中学)3年間を耐え抜いた経験は、大きな財産になっている」と語る。

ただ、話を聞いているとその練習は本当に過酷だ。たとえ台風が来ていても事前に練習が休みになることはなく、選手は必ず一度はグラウンドに出る。大会が近くても、実戦形式ではなく振り込みや守備練習などの「基礎」を延々と練習する……。グラウンドは京浜急行の能見台駅から歩いて十数分ほどの場所に位置するが、そこに向かうまでには長い上り坂がある。

秋山本人は当時を振り返って「グラウンドまで向かう足取りは、かなり重くなりますよね。なんていうか……『魔王の城』に向かっているような、そんな感覚です(笑)」と語ってくれた。もちろん、今はそれを笑い話にできるようになったが、当時はそんな余裕もなかった。

「とにかく毎週末、目の前の練習をどうやってクリアしていくか。それしか考えられなかった。試合をした記憶もほとんどなくて、思い出すのはグラウンドでの厳しい練習と、指導者の方たちに怒られたことだけです」

どんなに厳しい練習でも絶対に手を抜かなかった。その理由は?

その一方で、当時の指導者はこんなことを語っている。

「練習はものすごく厳しかったんですが、翔吾については正直、本人の態度や野球への姿勢について叱ったことはないと思います。キャプテンをやったりもしたので、チーム全体のことではかなり怒りましたが、彼自身はどんなに厳しい練習でも絶対に手を抜かない。例えば『走る』だけでも、彼は常に全力。結果的に他の選手が手を抜いて、連帯責任で走り直しになったりもするんですが、それでも絶対に一番で帰ってきましたね」

このエピソードを本人に伝えると、こんな言葉が返ってきた。

「コーチの方にチーム全員が集められて『おまえら、高校で甲子園に行くために必死に練習しているんじゃないのか!』って怒られたことがあったんです。チームメートはみんな『はいっ!』って返事するんですけど、僕は正直『いや、甲子園じゃなくてプロに行くために練習しているんだけどな……』と思ってしまって、返事ができなかったんです。でもそれがきっかけで『どんな練習でも、どんな試合でも、チームメートには負けちゃいけない』と思ったんですよね」

甲子園ではなく、プロ野球選手――。
目指すところがさらに上なら、当然試合や練習での姿勢、取り組みで負けるわけにはいかない。だからこそ、どんなにつらくても、たとえそこが「魔王の城」であっても、手を抜くことは許されない。

(横浜金沢リトルシニアで使用していたグラウンド。到着するまでに長い上り坂がある)

「楽な道ではなく、ちょっと厳しい道、難しい道を」

日本には今も、甲子園やプロ野球選手を目指す野球少年は大勢いる。そんな子どもたちにアドバイスを求めると、指導者たちがそろって口にした「努力」につながる金言をもらうことができた。

「野球を続けていれば、いろんな岐路に立つことがあります。そんな時、楽な道ではなくちょっと厳しい道、難しい道を選ぶタイミングを、少しでも多くつくってほしいです。それを積み重ねていくことで、いつか他人にとっては高い壁でも、自分は簡単に乗り越えることができるようになる。それは、野球だけでなく絶対にその後の人生にもつながるはずです」

「自ら厳しい道を選べ」というのは、例えば小学生にとっては少しハードルが高いかもしれない。ただ、少なくとも秋山翔吾は子どものころからそれを実践し、結果へと結びつけてきた。

だからこそ、この言葉にも説得力が生まれる。
他人に強要されるのではなく「自ら」選択することで、そこに責任が生まれ、血肉になる。

「つらいことはやらなくてもいいよ」
「逃げるのは負けじゃないよ」

今の日本には、そんな流れがあるのは確かだ。
ただ時として、逃げずに向かっていくことも必要になる。

メジャーリーガー・秋山翔吾の少年時代をたどってみて、それを感じることができた。

<了>

© 株式会社 REAL SPORTS