実は切ないんです…下市町のマスコットキャラクター「ごんたくん」のモデルに隠された逸話とは

 毎週月~金曜日ゆうがた5時30分から放送している奈良テレビの「ゆうドキッ!」。今回は様々な角度から奈良を知るエキスパート・奈良まほろばソムリエの大山さんに「奈良の雑学」を教えていただきました。

 今回のテーマは「義経千本桜の舞台・下市町」です。義経千本桜といえば、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目で有名ですよね!

義経千本桜は人形浄瑠璃・歌舞伎で、菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)、仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)と並ぶ、三大名作のひとつです。延享4年(1747年)に人形浄瑠璃として初めて上演されました。この物語は源平合戦で平家が滅びたあとが描かれています。源義経は兄の頼朝と仲が悪くなって九州や吉野に逃れようとします。しかし、滅びたはずの平家の武将たちが実は生きていて、再び襲いかかってくるという物語です。

初段・二段目・三段目・四段目・五段目と構成されているのですが、この中で三段目の「すしやの段」の舞台となったのが下市町なんです。

今回は、下市町が舞台である「すしやの段」をご紹介します!

さて、こちらは下市町のマスコットキャラクターですが、このキャラクターの名前は「困った人」、「いたずら者」という意味で使われる言葉が名前になっています。

名前は「ごんたくん」です。物語に「いがみの権太」という人物が登場するのですが、「いがみ」は歪んでいるということで、不良のこと。また、困った・いたずら者の子どものことを「ごんた」とよく言いますね。これは「いがみの権太」から来た言葉と考えられています。権太は一体、どんな悪いことをしたのでしょうか?権太が登場する、すし屋の物語をご紹介しましょう。

物語の舞台は下市町のすし屋です。すし屋を営む弥左衛門(やざえもん)は、昔、平家の武将・平重盛(しげもり)に助けられたことがあったため、その武将の息子・平維盛(これもり)を敵の源氏に狙われないように弟子の「弥助(やすけ)」と名乗らせてかくまっていました。

まわりの人は平維盛だと思っていません。一方、弥左衛門の息子、いがみの権太は、人のお金をゆすり取ったり悪さばかりしていました。ある日、母からお金を騙し取ろうと実家に帰った際、弥助の本当の正体は平維盛だと知ってしまいます。

そこで権太は、平家を追いかけてきた源氏からご褒美をもらおうと、維盛の首を差し出し、維盛の妻と子供も縛って引き渡します。

これに父の弥左衛門は激怒し、権太を刀で刺してしまうのです。

ここで権太は息が絶えようとする中、衝撃の告白をします。

「お金を騙し取ろうとして実家で身を潜めている時に弥助が本当は平維盛だということと、昔、父は維盛の父に助けられたと知った。自分はさんざん悪行を重ねてきたが、維盛と父の身の上を聞き、改心を決意した。」と言ったのです。なんと、権太が源氏に渡した首は維盛ではなく先に殺されていた別人で「維盛の妻と子供」として差し出したのは実は権太の妻子でした…。

権太のこの行動の裏には、妻と子を犠牲にする苦しみが隠されていたのです。少し切ないストーリーですが、なぜ下市町のすし屋が舞台になったのでしょうか?

維盛は源平合戦のあと都落ちをして消息不明となりましたが、義経が吉野へ逃げたように維盛も高野山から吉野へ向かったのではないかという説があります。「吉野は居場所を失った人々が再起を図る場所」、「追いかけるなら山を越えなければならない」など、逃げるに最適だったといわれている吉野へ向かうには、当時でいう下市村を通らなければいけません。その辺りにすし屋は「つるべすし 弥助」しかなく、さらに「つるべすし 弥助」は平家にゆかりのある家系ということもあり、そこがモデルとなったのではないかとされています。

ところで、すし屋の物語の主人公「いがみの権太」は実際にはいたのでしょうか?


いがみの権太は、舞台の登場人物で実在はしていません。しかし、お墓があるのです。

弥助さんに聞きますと「つるべすし 弥助」は49代続く老舗で、その長い歴史の間に権太ほどではないけれど、放蕩息子が3人いたそうです。その3人を組み合わせてできたキャラクターが権太といわれています。お墓も実際は、すし屋の放蕩息子3人のうちの誰かの墓だということなのですが「義経千本桜」の物語ができて、いつしか「いがみの権太の墓」となったようです。

この物語を知ると、舞台となったすし屋やお墓も行ってみたくなりますね!物語を代表する登場人物、権太に思いを馳せながらお散歩してみるのもいいかもしれませんね!

※この記事は取材当時の情報です。

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